平城京が出来る前の時代について -遣唐使と東アジア-

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投稿者:       投稿日時:2013/10/21 23:38      
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平城京が出来る前の時代について、遣唐使と東アジアについて考えてみます

 

 

・遣唐使と東アジア地域について

 

 ・618年に隋から唐になり、唐が領土をどんどん拡大していった

  →そのため、周りの国々とも交流するようになった

 

 ・日本は、犬上御田鍬をはじめとして遣唐使を送り、ほぼ20年に1度の割合で派遣された

  ※・遣唐使は、894年に菅原道真という人が遣唐使を停止する意見を出したため、派遣されなくなった

   ・当時は船を造ったり、航海をしたりする技術がまだ弱かったため、海の上で遭難してしまうことも多かった

 

 ・遣唐使によって、政治制度や文化などが入ってきたと言われている

  →中でも、唐から帰ってきた玄昉と吉備真備という人達は、聖武天皇に期待されて、政治の分野でも活躍した

   ※玄昉や吉備真備と一緒に唐に行った人に、阿倍仲麻呂という人がいる

    →阿倍仲麻呂は、当時の唐の皇帝だった玄宗という人に期待されて、唐で位の高い官職につき、

     詩人の王維や李白などとも交流をしたが、結果的に唐で死んでしまった

 

 ・日本は新羅とも交流があったが、日本は新羅を日本に従わせようとすることを考えていた

  ※唐で安禄山・史思明の乱という乱が起きて唐が混乱している時に、藤原仲麻呂が新羅を攻撃することを考えたが、

   結局は攻撃しなかった

   →唐と新羅は仲の良い関係にあり、仲良しの一方が混乱している時に、もう一方を攻撃すれば良いのではないか

    という考えがあったのではないか、と言われている

 

 ・7世紀の終わりに、靺鞨族と言われる人達や元々高句麗だった人達などを中心に渤海という国が出来た

  →渤海は、唐・新羅と対抗の関係にあったので、同じような対抗の関係にある日本と交流した

  →日本も渤海と積極的に交流した

 

 

ポイント

・遣唐使と東アジアについておさえる

 

このあたりが今回のポイントです

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コメント

  • : 2014/1/5(日) 08:13:38 | つちかべ | 返信する

    安土桃山末期、江戸初めの1604年に、ポルトガル人のジョアン・ロドリゲスが、日本に布教に来て30年ほど滞在し、作ったのが「日本大文典」という印刷書籍です。400年前の広辞苑ほどもあるような大部で驚きます、秀吉の知遇、さらに家康の外交顧問もしていました。当時、スペイン国王からはメキシコに帰る難破船救助のお礼に、「家康公の時計」をもらっています。古代から伝えられてきた日本の歴史について知ることができる タイムカプセル でしょうか。戦国時代直後まで伝えられてきた古代史で、倭国年号が522年善記から大宝まで記載され、続いて慶雲以後の大倭年号が続きます。日本大文典の倭国年号の存在は、ウィキなどにも記載されていません、「日本大文典」の実物を手にとって見てください、感動すること間違いありません。    宜しくお願いします。

  • : 2014/1/8(水) 22:19:21 | 足利 | 返信する

    つちかべ様

    コメントありがとうございます。
    内容を拝見させていただきました。

    ロドリゲスや「日本大文典」については、
    私の勉強不足で知らないことだらけでした。

    もう少し学びたいと思います。
    情報ありがとうございます。
    また、よろしくお願い致します。

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