古墳文化について -日本と東アジアとの関係・日本の大陸文化の受け入れ-
古墳文化について、日本と東アジアとの関係、日本の大陸文化の受け入れについて考えてみます
・日本と東アジアとの関係について
・中国は、三国時代の後、晋が国を統一したが、北の諸民族が南に移ったので、
南北が分裂する時代(南北朝時代)になった
→南北が分裂してしまったため、中国の支配力が弱くなってしまった
=そのため、東アジアの地域は、どんどん国家を作るようになっていった
・中国の東北部で高句麗という国が出来て、その国が朝鮮半島の北部に領土を広げていった
※313年には、高句麗が楽浪郡を滅ぼした
・朝鮮半島南部では、馬韓、弁韓、辰韓という、小国の連合体が作られていった
→4世紀には、馬韓から百済が、辰韓から新羅が出てきて、国家を作った
・4世紀の後半に、南部の鉄資源を確保するという目的で、
高句麗が朝鮮半島の南部にまで領土を広げようとした
→その時、南部の弁韓にあった加耶諸国(加羅)というところが、
高句麗と戦うようになった
※日本は加耶諸国と濃い関係があったので、
日本が加耶諸国と一緒に高句麗と戦うことになった
※高句麗の好太王碑の碑文というものには、日本と高句麗と争ったことが書かれている
※高句麗は騎馬の軍団を使うことで戦おうとしたので、
倭国も騎馬の技術を学ばなければいけなくなった
→そのため、日本の古墳に馬具が副葬品として墓に一緒に入れられるようになった
※騎馬技術は、391年(辛卯の年)に入ってきた
※高句麗と加耶諸国との戦いから逃げて、日本にきた人達がいて、
その人達が日本に様々な技術や文化を伝えた
=このように、日本に逃げてきて、日本に伝えてくれた朝鮮や中国の人達を渡来人と言う
→渡来人は、須恵器の生産、金属工芸、機織り、土木などの様々な技術を伝えてくれた
・日本は、朝鮮半島の南部での外交や軍事についての立場を有利にしようとした
→そのような動きは、「宋書」倭国伝という本に記されている
=「宋書」倭国伝に、讃、珍、済、興、武という倭の五王が、
中国の南朝というところに朝貢していたことが書いてある
※・倭の五王・・倭にいた5人の王様のこと
・朝貢・・外国の人が訪問して、朝廷に貢ぎ物を渡すこと
→当時の様子が、記紀(古事記と日本書紀のこと)に、以下のように書かれていた
・済の子供が興と武であり、済は允恭、興は安康、武は雄略、という人だった
※雄略天皇は、ワカタケルというようにも書かれていた
・「記紀」には、王仁、阿知使主、弓月君について書かれていた
※・王仁・・西文氏の祖で、「論語」などを伝えた
・阿知使主・・東漢氏の祖で、史部を管理した
・弓月使・・秦氏の祖で、養蚕や機織りを伝えた
・日本はどのような大陸文化を受け入れ、どうなったのか
※大陸文化・・大陸から入ってきた文化のこと
・日本は、渡来人から様々な技術を伝えられた
・ヤマト政権は、渡来人を韓鍛冶部、陶作部、錦織部、鞍作部などという
技術者集団に分けて、各地に住ませた
・この当時から、漢字を使うようになった
→漢字を使っている様子は、埼玉県の稲荷山古墳の鉄剣に漢字で言葉が
書かれていることからわかる
※ヤマト政権では、漢字を使って様々な記録や出納などを行っていた
→実際に記録や出納を行っていたのは、史部という渡来人だった
・6世紀に、百済から渡来してきた五経博士という人によって、儒教が伝えられた
・医(医療)、易(占い)、暦(日や月などのこよみ)などが入ってきて、
支配者層に受け入れられた
・仏教が朝鮮半島から伝えられた
・「帝紀」や「旧辞」がまとめられるようになった
※・帝紀・・大王の系譜を書いたもののこと
・旧辞・・朝廷の伝承や説話などを書いたもののこと
→帝紀や旧辞を使ってまとめられたものが、古事記や日本書紀だった
・百済の聖明王が、欽明天皇に仏像や経論などを伝えた
ポイント
・日本と東アジアとの関係を押さえる
・日本がどのような文化を受け入れたかを押さえる
このあたりが今回のポイントです