魏晋南北朝の文化と周辺国家の動きについて
魏晋南北朝の文化と周辺国家の動きについて考えてみます
・魏晋南北朝について
・魏晋南北朝の動乱の時代は、国家の統制が弱まっていた
→そのため、民族が混じり合う状況になり、様々な思想や文化が生まれてきた
・仏教について
・中国で仏教が広まったのは、4世紀の後半からだった
(ただし、仏教はすでに1世紀ころに西域から伝えられていた)
→仏図澄や鳩摩羅什などは、西域からやってきて、華北での布教や仏典の翻訳に活躍した
→法顕という人は、直接インドにいって仏教をおさめ、旅行記である「仏国記」を書いた
※仏教の普及によって、華北で多くの石窟寺院が作られた
※仏教を表現したものとして、以下のようなものがある
・敦煌という場所では、粘土製の塑像と絵画で仏教が表現された
・雲崗や竜門と呼ばれる場所では、石像と石彫によって、仏教の世界が表現された
※仏教は、華北と江南で受け入れられる範囲が違った
・華北・・仏教は庶民にまでひろまっていった
・江南・・貴族の教養として受け入れられた
→仏教の普及に刺激されて、この時に道教が誕生した
・道教について
・道教は、古くからの民間信仰と神仙思想に道家の考え方を取り入れてできたものだった
※神仙思想・・仙人や不老不死を信じる思想のこと
→道士の寇謙之という人は、教団をつくって、北魏の太武帝に信任された
=その後、仏教と対抗して、勢力をのばしていった
・当時の文化について
・当時の貴族の文化の特徴の一つに、精神の自由さを重要視するということが挙げられる
→そのため、貴族の間では、道徳や規範に縛られない趣味の世界が楽しまれた
・魏と晋の時代には、世俗を超えた清談というものが優れているものとされ、
文化人の間で流行した
・文学の面では、田園生活へのあこがれをうたう陶潜や謝霊運という人達の誌が名高い
・当時の文体の特徴として、対句を使ったはなやかな四六駢儷体というのが挙げられる
→四六駢儷体の名作として、梁の昭明太子が編纂した「文選」という作品がある
・絵画の分野では、顧愷之という人が有名で、絵画の道の生みの親として尊敬された
・書の分野では、王羲之という人が有名で、書の道の生みの親として尊敬された
・周辺国家の動きについて
・周辺民族の活動は、中国の北方や東方で活発になっていった
→中でも、分裂時代の中国の様々な王朝は、自分の権力を高めるために、
周りの新興国家とのつながりを強化しようとした
=そのため、朝貢の関係が積極的に結ばれた
※朝貢・・周辺国が貢ぎ物を持った使節を中心国に送り、中心国の君主が使節に会い、
返礼品を与える制度のこと
朝貢は、国際関係を確認するための外交儀礼であると同時に、
貿易の側面があった
・紀元前1世紀ころ、中国東北地方の南部に、高句麗という国が誕生した
→高句麗は、4世紀の初めに南に行き、楽浪郡を倒した
=その結果、朝鮮半島を支配した
・この時期は、半島の南部で小国が分立していた
→この小国が統一を進め、東側に新羅、西側に百済、南側に加羅(伽耶)諸国が誕生した
=上のように、高句麗、新羅、百済という3つの国が並んでいたこの時代を、
三国時代という
※当時の倭(日本)は、加羅や百済を助けて、高句麗に対抗していた
→しかし、6世紀の後半には、朝鮮半島から手を引いた
※中国の吉林省に現存する高句麗の広開土王(好太王)碑は、
王の事績と一緒に百済、倭との戦争の
状況を示しているが、その読み方については、諸説がある
・日本は、3世紀には、かなり多くの小さな国に分かれていた
→その中で、有力だった邪馬台国の女王の卑弥呼という人が、三国の魏に朝貢使節を送って、
「親魏倭王」という称号が与えられた
※このことについて書かれていたものに、「三国志」魏書の東夷伝
(通称「魏志倭人伝」)というのがあり、
魏志倭人伝の倭人の部分は、当時の日本に関する貴重な資料だが、
邪馬台国の位置については論争がある
・4世紀には、大和政権という政権による統一が進んだ
・5世紀には、倭国の王が中国の南朝にたびたび使いを送った
→このような流れを受けて、日本は次第に国家の統一が進んでいった
ポイント
・魏晋南北朝の文化の概要をおさえる
・仏教と道教についておさえる
・周辺国家の動きについておさえる
このあたりが今回のポイントです