平城京について -平城京の概要と地方の政治-
平城京とその当時の社会について考えてみます
・平城京と奈良時代について
・奈良時代とは・・710年に元明天皇という人が藤原京から奈良の平城京へ移った
→この後に長岡京・平安京に移るが、平城京から長岡京・平安京に
移るまでの時代を奈良時代と言う
・平城京の特徴について
・条坊制というスタイルを採用している
・中央に朱雀大路という道があり、左側に右京が、右側に左京がある
※平城宮から見て左京と右京を決めたため、左右が逆になっている
・中央の北側に平城宮がある
→平城宮の中に、内裏(天皇の生活の場所)、大極殿や朝堂院(政務や儀礼の場所)、
官庁などがある
・それ以外の場所には、貴族・官人・庶民などの住宅、東大寺や興福寺などの寺院で
伽藍建築などが建てられた
・左京と右京に、官が運営する形で市(市場のこと)が作られた
→・市は、市司という人が仕切った
・市では、地方からの産物や官吏への給付のための糸や布が交換されていた
・当時のお金について
・708年に武蔵国というところから、銅が中央に送られてきたので、
その銅を使って、和同開珎という銅銭を作った
※和同開珎の後も銅銭が作られ続け、結果的に乾元大宝という銅銭まで、
国家が12回に渡って銭貨を作った
=この12回分の銭貨をまとめて、本朝十二銭と言う
・政府は和同開珎を広めようとして、蓄銭叙位令という法律を作った
→京や畿内では銭貨が使われたが、それ以外の場所では物々交換が主流だったので、
失敗に終わった
※蓄銭叙位令・・ある一定の額を蓄えて政府に渡せば、
その人に位を与えるとした法律のこと
→銭貨が広がることを狙ったが、使わずにため込む人が増え、
800年にこの法律を廃止した
・当時の交通制度について
・都を中心に七道に向かうための道として、官道という道路が作られ、
駅制(約16キロごとに駅家という施設を置く制度)が用いられた
・地方で、郡家と郡家をつなぐ道(伝路)が作られた
・当時の国と地方の動きについて
・地方の国府に、政庁(政務や儀礼を行う場所)や、様々な事務を行うための役所、
国司の居館などが設置された
→その地方の政治や経済の中心として、役割を担っていた
※国府の近くには、国分寺という寺も建てられていたため、
文化も中心的な役割を担った
→郡家も国府に似たような施設を持っていて、郡の中心的な役割だった
※郡家の調査から、郡の中では文書を中心として行動していたと考えられている
・政府が、各地に灌漑の技術を使って、耕地を拡大させようとした
・鉱物資源のために、長門の銅や陸奥の金などを採掘する、ということも行っていた
・養蚕や織物の技術を持った人を各地に派遣することで、各地で税のための
より良い特産品を作らせた
・中央政府は、自分達の権力がより広がるように、日本の地方にも工夫するようになった
→・蝦夷(東北の人々)のところに対しては、渟足柵、磐舟柵という城柵を作って、
高句麗の攻撃から守ろうとした
・斉明天皇の時代に、阿倍比羅夫という人が蝦夷のほうに派遣され、
秋田などの北方の蝦夷とも関係を結んだ
・軍事的な制圧のための政策を行った
=中央に従う蝦夷は優遇し、反抗する蝦夷は武力を使って抑えつける、
という政策を取った
・日本海側に出羽国、秋田城、太平洋側に陸奥の国府として多賀城が作られた
→出羽や陸奥などの政治や蝦夷の対策をするための拠点として作られた
・隼人(南九州の人々)という人達の地域には、大隅国という国が設置されたため、
薩南諸島などの人々も政府と交流するようになっていった
※上のような状況でも、政府が支配した場所は日本海沿いの拠点でとどまっていた
ポイント
・平城京と奈良時代について押さえる
・平城京の特徴、お金、交通制度、当時の国と地方の動きについてを押さえる
このあたりが今回のポイントです