藤原氏の行動について -藤原氏の進出と活躍-
藤原氏の動きについて考えてみます
・藤原氏と政界の動きについて
・8世紀の初めころに、藤原不比等という人が中心になって律令制度の完成に向けて動いていた
→結果的に藤原氏が政治に進出するようになると、大伴氏などの昔から力のあった勢力は
弱くなっていった
・藤原不比等は、自分の娘である宮子を文武天皇という人と結婚させて、
その2人の子ども(後で聖武天皇になる)と、自分の娘である光明子を結婚させた
→自分の娘たちを天皇の人たちと結婚させることで、
藤原氏と天皇との密接な関係を作ることを狙った
・不比等が死んだ後に、長屋王という人が右大臣になって、政治をコントロールした
→その時に、藤原氏の権力が危なくなったので、
不比等の4兄弟の子供たち(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)は
藤原氏の権力を維持するために長屋王を自殺させた
=この出来事を、長屋王の変と言う
→この出来事によって、光明子を皇后にすることが出来た
※しかし、天然痘という病気が流行して、4兄弟がどんどん死んでいったため、
また藤原氏の勢力が弱くなった
→この流れによって、橘諸兄という人が政治をコントロールするようになった
=その時に、玄昉と吉備真備が聖武天皇に期待されて活躍した
・740年に、藤原広嗣という人が、玄昉と吉備真備を辞めさせることを目指して、
北九州で反乱を起こした
=この出来事を藤原広嗣の乱という
→この乱は、結局鎮圧されてしまった
※藤原広嗣の乱が起きてから数年の間、聖武天皇は恭仁、難波、紫香楽などに
都をどんどん移していった
→以上のように、政治の状況が混乱したり、病気や飢饉が広がったりした、ということがあった
=そこで、聖武天皇は仏教を深く信仰していたため、鎮護国家という考え方で
国が安定することを目指そうとした
※鎮護国家・・仏によって、国家を落ち着かせようとする考え方のこと
→鎮護国家のために、以下のようなことを行った
・741年に国分寺建立の詔というものを出して、様々な国に
国分寺や国分尼寺を作らせた
・743年に近江の紫香楽宮というところで、大仏造立の詔というものを出した
※745年に平城京に戻ったが、大仏造立は奈良でも続けられた
・752年の、孝謙天皇(聖武天皇の娘)の時に、大仏の開眼供養という儀式が行われた
・孝謙天皇の時代に、藤原仲麻呂という人が光明皇太后(光明子)という人と手を組んで、
政治の世界で勢力を伸ばした
→橘奈良麻呂(橘諸兄の子)という人が、藤原仲麻呂を倒そうとしたが、
逆に藤原仲麻呂に倒されてしまった
=この戦いのことを、橘奈良麻呂の変と言う
・藤原仲麻呂は、淳仁天皇という人を擁護して、天皇に就かせた
→その時に藤原仲麻呂は、淳仁天皇から恵美押勝という名前をもらって、
大量の経済的な権利を得ると同時に、様々な権力自体を独占して、
結果的に藤原仲麻呂は太政大臣にまでなった
・恵美押勝は、手を組んでいた光明皇太后が亡くなると、孤立してしまった
→さらに、孝謙太政天皇(孝謙天皇)は、自分の看病をしてくれた
僧の道鏡をかわいがり、淳仁天皇と対立した
→そこで、淳仁天皇と恵美押勝の側が危機感を抱いたので、孝謙天皇と戦った
=この戦いのことを恵美押勝の乱と言う
※恵美押勝の乱では、孝謙天皇の側が勝った
→結果的に淳仁天皇は淡路に流されたので、孝謙天皇がもう一度天皇の
地位につき、称徳天皇になった
・道鏡は、称徳天皇の力によって、太政大臣禅師と法王という地位になり、権力を握って、
仏教の政治を行った
※769年に称徳天皇が道鏡に自分の地位を渡そうとしたが、
和気清麻呂という人の行動によって、渡されなかった
→九州の宇佐八幡神という神が、道鏡が天皇になるお告げをしたが、
その神の意見を聞く人になった和気清麻呂は、お告げと反対の報告をして、
道鏡に即位させないようにした
※この行動の背景には、道鏡に反対する人達がいたからだと言われている
=結局、称徳天皇が亡くなった後に、道鏡は外されることになった
※道鏡は、追放され、そこで死んだ
・次の天皇には、光仁天皇(天智天皇の孫)が任命された
→光仁天皇の時代には、道鏡の仏教政治が原因で混乱してしまった政治と財政を
立て直すことを目指した
※光仁天皇が即位した背景には、藤原式家の藤原百川などの人達が動いた、
ということがある
ポイント
・藤原氏と政界の動きを押さえる
このあたりが今回のポイントです