社会主義運動と積極外交と中国の動きについて

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投稿者:       投稿日時:2013/10/28 16:15      
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社会主義運動と積極外交と中国の動きについて考えてみます

 

 

・社会主義運動と積極外交と中国の動きについて

 

 

 ・普通選挙法が出来てから、労働組合や農民組合を土台にする社会主義の人達が、

  議会を通して社会の改革を目指すようになっていった

 

  →そこで、1925年に農民労働党という政党が作られた

   ※しかし、農民労働党は共産党と関係があるという理由で

    作られたその日に禁止になった

  →そのため、1926年に共産党を除外して、合法的な無産政党の

   労働農民党(労農党)という政党が作られた

   ※無産政党・・労働者や農民など、生産手段を持っていない人達の

          利益を追求する政党のこと

 

  ※しかし、労働農民党の中で、共産党の系統の勢いが高まってくる

   ということが起きた

   →その時に、社会民主党(社民党)と日本労農党の2つがそれぞれ分裂して、

    政党から離脱することになった

    ※社会民主党・・議会主義や国民政党の考え方を持っている政党のこと

     日本労農党・・労農党と社民党との中間的な立場に経っていた政党のこと

 

 

 

 ・1928年に普通選挙制による最初の総選挙が行われた

  →その時に、無産政党の系統から、8人が当選した

   

   ※この時に、今まで違法だとして扱われていた日本共産党が平然と活動を始めた

    →この動きに衝撃を受けた田中義一内閣は、3月15日に共産党員をまとめて検挙して、

     日本労働組合評議会などのような、共産党に関係する団体を解散させる、

     ということを行った

     =この出来事を、三・一五事件という

 

 

 

 ・1928年に、治安維持法を改正した

  →改正の結果、最も厳しい刑を死刑と無期刑にすることになった

   ※今までは、最も厳しい刑は10年以下の懲役と禁錮だった

   ※治安維持法の改正は、議会では成立しなかったので、緊急勅令を出すことで改正された

 

  →さらに、道府県の警察にも特別高等課(特高)を作って、次の年に大規模な検挙を行った

   =この出来事を、四・一六事件という

 

 

 

 ・田中義一内閣の時に、日本の外交は中国に対して、強硬的な姿勢を取ることにした

  ※ただし、欧米の国々に対しては協調外交を行う方針を引き継いで、

   1928年にパリで不戦条約という条約に調印している

   →この条約は、国際紛争を解決するために戦争をすることをやめ、

    国家の政策としての手段に戦争を使う事を放棄することを、

    「其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ」宣言するものだった

    ※ただし日本政府は次の年に、不戦条約は天皇主権の憲法を持っている日本には

     適用されないことを認めることを宣言した

 

 

 

 ・上のような状況で、中国は北伐を行っていた

 

  ※北伐について

   ・孫文という人が1919年に中国国民党という政党を作った

    →中国国民党は、広東という場所を中心に中国の南の方を支配していった

   ・1921年に中国共産党という政党が出てきた

    →中国国民党は、中国共産党と手を組んで、1924年に第1次国共合作

     という協力関係を作った

   ・1925年に孫文が亡くなり、その後を蒋介石という人が継いだ

    →蒋介石は中国全土を統一するために、1926年に北方軍閥を倒して、

     国民革命軍という軍隊を作った

     ※この時に蒋介石は国民革命軍を連れて北伐を目指し、

      南京というところに国民政府という政府を作り、さらに北伐を行っていった

 

 

 

 ・この状況に対して、田中義一内閣は、1927年に中国に関係する外交官や軍人を集めて、

  東方会議という会議を開いた

  →この会議で日本は、満州にある日本の利益を武力を使って守ることを決めた

 

 

 ・1927年から1928年の時に、田中義一内閣は、満州の軍閥だった張作霖

  という人を支援した

  →その時に、国民革命軍に対抗するために、中国に住んでいる日本人を保護する

   という口実で、3回の山東出兵を行った

   ※2回目の出兵の時には、日本軍が国民革命軍と戦い、一時的に済南城という城を

    占領するということが起きた

    =この出来事を、済南事件という

 

 

 

 ・この後に、張作霖が国民革命軍に負ける、ということが起きた

  →この時に関東軍の一部で、張作霖を消して、自分達で直接満州を支配するのはどうか

   という考えが出てきた

   ※関東軍・・関東都督府が関東庁と名前を変えた時に、陸軍部が独立して関東軍になった

         →関東軍は、遼東半島の一時的に借りている土地と、

          満鉄の沿線を守ることが任務だった

 

  →そこで関東軍は、日本政府に言わずに独断で、満州に帰る途中だった張作霖を、

   奉天という地域の郊外で列車ごと爆破して殺す、ということを行った

   =この出来事を、張作霖爆殺事件という

 

  ※当時、張作霖爆殺事件の真相は国民には伝えられず、

   満州某重大事件とだけ言われていた

 

 

 ・張作霖爆殺事件については、当時元老だった西園寺公望の意見もあったため、

  田中義一内閣は真相を公表することと厳重に処分することを決めて、

  その考えを天皇に伝えた

  ※しかし、この考えは閣僚や陸軍の人達から反対されてしまった

   →そのため、田中義一内閣は張作霖爆殺事件の先頭に立った河本大作大佐を

    停職にしただけで、この事件を終わらせた

 

  ※上のようにして、田中義一内閣は方向転換をしたが、その方向転換が

   天皇を怒らせてしまった

   →そのため、1929年に、田中義一内閣は総辞職をすることになった

 

 

 

 ・張作霖爆殺事件の結果、関東軍の考えと反対になり、張作霖の子どもで後継者だった

  張学良という人が、1928年に張学良が支配していた満州を、

  国民政府に支配させることを決めた

  ※張学良は国民政府と合流して、満州で国民党の青天白日を示した旗を立てた

   =これを、易幟(えきし)という

 

 

 →以上のようにして、中国国民党の北伐が達成され、中国全土がほとんど統一された

 

  ※ただし、中国では不平等条約の撤廃や国権の回収などを求める民族運動も起きていた

   =そのため、1931年に国民政府が不平等条約が無効であることを

    一方的に宣言する方針を取ることにした

 

 

 

ポイント

・社会主義運動について押さえる

・積極外交と強硬の外交の様子を押さえる

・中国の動きを押さえる

 

このあたりが今回のポイントです

 

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