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	<title>アラエス &#187; オーストリア継承戦争</title>
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	<item>
		<title>アメリカでの植民地争奪の様子について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/939</link>
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		<pubDate>Mon, 14 Oct 2013 18:27:24 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[赤長のいちご]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[近代ヨーロッパ史前期]]></category>
		<category><![CDATA[アメリカ]]></category>
		<category><![CDATA[オーストリア継承戦争]]></category>
		<category><![CDATA[スペイン継承戦争]]></category>
		<category><![CDATA[ニューヨーク]]></category>
		<category><![CDATA[パリ条約]]></category>
		<category><![CDATA[フレンチ＝インディアン戦争]]></category>
		<category><![CDATA[マリア＝テレジア]]></category>
		<category><![CDATA[メイフラワー号]]></category>
		<category><![CDATA[植民地]]></category>

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		<description><![CDATA[アメリカでの植民地争奪の様子について考えてみます &#160; &#160; &#160; ・アメリカのでの植民地争奪について &#160; &#160; 　・ポルトガル領になったブラジルを除いて、ラテンアメリカの大半を [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/939">アメリカでの植民地争奪の様子について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>アメリカでの植民地争奪の様子について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・アメリカのでの植民地争奪について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・ポルトガル領になったブラジルを除いて、ラテンアメリカの大半を植民地化したスペインは、</p>
<p>　　インディオと西アフリカから移入した黒人奴隷を働かせて鉱山の開発を行った</p>
<p>　　＝そのため、スペインは大量の金銀を独占した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１７世紀になると、オランダが１６２１年に西インド会社を設立した</p>
<p>　　→この設立の後に、アフリカ西岸とアメリカとの通商に乗り出した</p>
<p>　　　※オランダは、北アメリカ東岸にニューネーデルラント植民地を領有して、</p>
<p>　　　　ニューアムステルダムを建設した</p>
<p>　　　　＝その後、イギリスが１６６４年に奪って、ニューヨークと改名した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・フランスは、１７世紀の頭からケベックを中心にカナダへ進出した</p>
<p>　　※ルイ１４世の時代には、広大なルイジアナを手に入れた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・一方でイギリスは、１７世紀の頭に北アメリカ東岸に最初の植民地であるヴァージニアを設けた</p>
<p>　　→その後、多くのピューリタンがイギリスでの迫害を逃れて、北アメリカに移住し、</p>
<p>　　　ニューイングランド植民地が作られた</p>
<p>　　　※１６２０年には、ピューリタンの一団（ピルグリム＝ファーザーズ）が</p>
<p>　　　　メイフラワー号でアメリカにわたり、プリスマに定着して、</p>
<p>　　　　ニューイングランド植民地の基礎を作った</p>
<p>　　　　＝そして、１８世紀の前半までにはイギリスの１３の植民地が南北に並ぶ形となった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※当時、イギリスからの入植者は多様だった</p>
<p>　　　→この入植者は、ラテンアメリカのヨーロッパ人植民地の場合と違い、</p>
<p>　　　　先住民のインディアンと融合しなかった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１８世紀には、イギリスとフランスとの戦いが繰り返された</p>
<p>　　→イギリスは、スペイン継承戦争の結果、フランスから北アメリカの領土を獲得した</p>
<p>　　→イギリスは、オーストリア継承戦争で、フランスの兵力を</p>
<p>　　　ヨーロッパ内にとどめておくために、マリア＝テレジアを援助した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・北アメリカはその後、七年戦争と並行する形で、フレンチ＝インディアン戦争と</p>
<p>　　呼ばれるイギリスとフランスの植民地争いの戦争が行なわれた</p>
<p>　　※この戦争では、イギリスが勝利した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・フレンチ＝インディアン戦争の後に、以下のようなことが起きた</p>
<p>　　　→・イギリスは、１７６３年のパリ条約で、カナダとミシシッピ川以東のルイジアナ、</p>
<p>　　　　　フロリダ、セネガル、西インド諸島の一部を獲得した</p>
<p>　　　　・フランスは逆に、ミシシッピ川以西のルイジアナをスペインに譲った</p>
<p>　　　　　＝そのため、北アメリカの領土を全て失い、</p>
<p>　　　　　　この土地にイギリス植民地帝国の基礎が作られた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・アメリカの植民地を取り合う様子と流れについておさえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/939">アメリカでの植民地争奪の様子について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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		<item>
		<title>プロイセンとオーストリアの動きについて</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/935</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/935#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 14 Oct 2013 14:35:01 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[赤長のいちご]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[近代ヨーロッパ史前期]]></category>
		<category><![CDATA[オーストリア]]></category>
		<category><![CDATA[オーストリア継承戦争]]></category>
		<category><![CDATA[スペイン継承戦争]]></category>
		<category><![CDATA[フリードリヒ2世]]></category>
		<category><![CDATA[プロイセン]]></category>
		<category><![CDATA[ユンカー]]></category>
		<category><![CDATA[七年戦争]]></category>
		<category><![CDATA[啓蒙専制主義]]></category>
		<category><![CDATA[外交革命]]></category>

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		<description><![CDATA[プロイセンとオーストリアの動きについて考えてみます &#160; &#160; ・プロイセンとオーストリアについて &#160; &#160; &#160; 　・ドイツでは、プロイセンがオーストリアにつぐ第２の強国として [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/935">プロイセンとオーストリアの動きについて</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>プロイセンとオーストリアの動きについて考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・プロイセンとオーストリアについて</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・ドイツでは、プロイセンがオーストリアにつぐ第２の強国として、</p>
<p>　　主権国家体制の一役を担う存在に成長した</p>
<p>　　</p>
<p>　・プロイセンは、スペイン継承戦争で神聖ローマ皇帝を助けて王国に昇格した</p>
<p>　　→プロイセンは、２代目の王であるフリードリヒ＝ヴィルヘルム１世が</p>
<p>　　　財政と行政を整えて軍備を増強した</p>
<p>　　　＝そして、結果的に絶対王政の基礎を作り上げたと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・オーストリアで、マリア＝テレジアという人がハプスブルク家の</p>
<p>　　全領土を継承するということが起きた</p>
<p>　　→すると、１７４０年に、フリードリヒ２世（大王）という人は、</p>
<p>　　　マリア＝テレジアの全領土の継承に異議を唱えた</p>
<p>　　　＝その結果、フリードリヒ２世は、資源の豊富なシュレジエンを占領した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→その後、フリードリヒ２世は、自らの継承権を主張するバイエルン公や、</p>
<p>　　　フランス王などとともに、イギリスに支援されたオーストリアと戦った</p>
<p>　　　＝この戦いを、オーストリア継承戦争という</p>
<p>　　　　※この戦争は、１７４０年～４８年に行われ、シュレジエンを獲得した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・戦争の数年後に、シュレジエンの奪回を目指すマリア＝テレジアは、外交政策を転換した</p>
<p>　　→そこで、長年敵対関係にあったフランスと同盟し、ロシアを味方につけた</p>
<p>　　　※フリードリヒがフランスと同盟を結んだことを、「外交革命」という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→これだけ味方につけたため、フリードリヒが１７５６年にはじめた七年戦争では、</p>
<p>　　　プロイセンが苦戦した</p>
<p>　　　※しかし、１７６３年に有利な和平を結んでシュレジエンを確保し、</p>
<p>　　　　ヨーロッパの強国の位置についた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・フリードリヒは、「君主は国家第一の僕」と自称していた</p>
<p>　　※フリードリヒなどは、ヴォルテールなどのフランス啓蒙思想を参考にし、</p>
<p>　　　内政面で以下のようなことを行った</p>
<p>　　　→・信教の自由を認めた</p>
<p>　　　　・産業の育成を認めた</p>
<p>　　　　・司法の改革を行った</p>
<p>　　　　　＝以上のような動きによって、国民の福祉の向上を目標にかかげた政策を展開した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・プロイセンなどでは、西ヨーロッパで改革の担い手になった市民層の成長が十分ではなかった</p>
<p>　　→このため、君主主導で改革をすすめる体制（「上からの近代化」）がとられた</p>
<p>　　　＝この体制を、啓蒙専制主義という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※フリードリヒは、啓蒙専制君主の典型とされていた</p>
<p>　　　→しかし、その統治はユンカーを支柱とする非近代的な性格の強いものだった</p>
<p>　　　→そのため、農民の農奴的地位は改善されなかった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・オーストリアでも、マリア＝テレジアがプロイセンとの戦争に備えて、</p>
<p>　　様々な内政の改革を行った</p>
<p>　　→マリア＝テレジアの子どものヨーゼフ２世という人は、啓蒙専制君主として、</p>
<p>　　　宗教面での寛容政策や農奴解放など、上からの近代化につとめた</p>
<p>　　　※しかし、ヨーゼフの中央集権的な改革は、特権を守ろうとする貴族や地域社会から</p>
<p>　　　　強い抵抗を受けた</p>
<p>　　　　＝結果的に改革は、挫折したものが多かった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※オーストリアのハプスブルク家は、チェック人の住むベーメン王国、</p>
<p>　　　マジャール人のハンガリー王国、北イタリア地方、ベルギーなどを支配していた</p>
<p>　　　＝そのため、ヨーゼフの画一的な改革は民族の感情の反発を招いていた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・プロイセンとオーストリアの様子についておさえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/935">プロイセンとオーストリアの動きについて</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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		<item>
		<title>西ヨーロッパ勢力の進出とインドの植民地化について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/902</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/902#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 14 Oct 2013 07:42:27 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[大きな魚]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[近代アジア史後期]]></category>
		<category><![CDATA[アウラングゼーブ帝]]></category>
		<category><![CDATA[インド]]></category>
		<category><![CDATA[オーストリア継承戦争]]></category>
		<category><![CDATA[パリ条約]]></category>
		<category><![CDATA[プラッシーの戦い]]></category>
		<category><![CDATA[マイソール戦争]]></category>
		<category><![CDATA[ムガル帝国]]></category>
		<category><![CDATA[ヴァスコ＝ダ＝ガマ]]></category>
		<category><![CDATA[七年戦争]]></category>
		<category><![CDATA[東インド会社]]></category>

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		<description><![CDATA[西ヨーロッパ勢力の進出とインドの植民地化について考えてみます &#160; &#160; ・西ヨーロッパ勢力の進出について &#160; 　※西欧の国々の進出までの流れについて 　　・西欧の勢力が進出する以前のインド洋世 [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/902">西ヨーロッパ勢力の進出とインドの植民地化について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>西ヨーロッパ勢力の進出とインドの植民地化について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・西ヨーロッパ勢力の進出について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　※西欧の国々の進出までの流れについて</p>
<p>　　・西欧の勢力が進出する以前のインド洋世界には、港市を結ぶネットワークが形成されていた</p>
<p>　　　→このネットワークでは、ムスリム商人やインド商人が活躍していた</p>
<p>　　・１５世紀の終わりにヴァスコ＝ダ＝ガマという人によってインドへの直接の航路が</p>
<p>　　　発見されるようになった</p>
<p>　　　→すると、ヨーロッパの商業勢力がインド洋世界への新たな参加者として登場した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・西ヨーロッパ勢力の動きとインドの植民地化について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・ヨーロッパの商業勢力の活動が本格化する１７世紀から１８世紀にかけてのインドは、</p>
<p>　　商品経済の発展を背景に、各地で政治経済活動が活発化し、</p>
<p>　　地方政権が力をつけていった時期だった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>　・オランダ、イギリス、フランスなど、ヨーロッパ各国の東インド会社が、</p>
<p>　　以下のようなことを行っていた</p>
<p>　　→・ヨーロッパで需要が大きかったインド産の綿布の獲得を目指していた</p>
<p>　　　・そこで、インドに各地に着々と商館を建設し、商業活動を拡大した</p>
<p>　　　・その対価として、インドへ金や銀を大量に持ち込んできた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　＝このような、綿布を中心の輸出商品とする対外交易の拡大と、大量の金や銀の流入は、</p>
<p>　　　農業生産物を現物で分配するということを基礎として成り立ってきたという</p>
<p>　　　今までのインド経済の構造に大きな変化をもたらす要因になった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・地方政権の台頭に悩まされていたアウラングゼーブ帝が１８世紀の初めに死去する</p>
<p>　　ということが起きた</p>
<p>　　→すると、ムガル帝国は支配領域をまとめていく政治的な力を急速に失っていった</p>
<p>　　　＝結果的に、ムガル帝国は名目的な存在になっていった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・一方で、地方の様々な勢力は、独立性をさらに高めていった</p>
<p>　　※そのため、お互いに軍事的な抗争を繰り返すようになっていった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・ヨーロッパの国々のうち、イギリスとフランスの両方の東インド会社は、</p>
<p>　　１８世紀にはいってからも活発な商業活動を続けていた</p>
<p>　　→両方の東インド会社は、これらの抗争に関わらないでいつづけることが出来ず、</p>
<p>　　　だんだんと抗争に巻き込まれていった</p>
<p>　　　※さらに、両方の東インド会社は、インドとは無関係のヨーロッパでの対立を</p>
<p>　　　　持ち込むこともあった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→上のような対立の例として、以下のようなものがある</p>
<p>　　　・１８世紀のなかばに、インド南部のカーナティックと呼ばれた地域を舞台に、</p>
<p>　　　　オーストリア継承戦争や七年戦争と関連してイギリス、フランス、インドなどの</p>
<p>　　　　地方勢力が入り乱れて繰り広げられた戦争</p>
<p>　　　・インド東部でベンガル地方政権とフランスとの連合勢力がイギリスと抗争した</p>
<p>　　　　１７５７年のプラッシーの戦い</p>
<p>　　　　＝結局、軍事力と資金力が高かったイギリスは、１７６３年のパリ条約で</p>
<p>　　　　　インドでのイギリスとフランスとの戦いに決着をつけた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→イギリスは、他のような争いも起きた</p>
<p>　　　・インドの様々な勢力に対して、１７６５年にイギリスは東部でベンガルとビバールの</p>
<p>　　　　両方の地域の徴税権を獲得して、財政基盤を確保した</p>
<p>　　　・南部で４回にわたるマイソール戦争、西部でのマラーター戦争、</p>
<p>　　　　西北部でのシク王国との戦争でイギリスはそれぞれ勝利をおさめた</p>
<p>　　　　＝結果的にイギリスは、１９世紀の半ばにインド全域を支配することに成功した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　＝以上のような流れを受けてイギリスは、一部は藩王国として間接統治とし、</p>
<p>　　　他は直接支配するという体制を作った</p>
<p>　　　※この体制によって、インドの政治的植民地化を完成させたと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・西欧の国々の進出についておさえる</p>
<p>・イギリスがインドを支配するまでの流れをおさえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/902">西ヨーロッパ勢力の進出とインドの植民地化について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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