プロイセンとオーストリアの動きについて
プロイセンとオーストリアの動きについて考えてみます
・プロイセンとオーストリアについて
・ドイツでは、プロイセンがオーストリアにつぐ第2の強国として、
主権国家体制の一役を担う存在に成長した
・プロイセンは、スペイン継承戦争で神聖ローマ皇帝を助けて王国に昇格した
→プロイセンは、2代目の王であるフリードリヒ=ヴィルヘルム1世が
財政と行政を整えて軍備を増強した
=そして、結果的に絶対王政の基礎を作り上げたと言われている
・オーストリアで、マリア=テレジアという人がハプスブルク家の
全領土を継承するということが起きた
→すると、1740年に、フリードリヒ2世(大王)という人は、
マリア=テレジアの全領土の継承に異議を唱えた
=その結果、フリードリヒ2世は、資源の豊富なシュレジエンを占領した
→その後、フリードリヒ2世は、自らの継承権を主張するバイエルン公や、
フランス王などとともに、イギリスに支援されたオーストリアと戦った
=この戦いを、オーストリア継承戦争という
※この戦争は、1740年~48年に行われ、シュレジエンを獲得した
・戦争の数年後に、シュレジエンの奪回を目指すマリア=テレジアは、外交政策を転換した
→そこで、長年敵対関係にあったフランスと同盟し、ロシアを味方につけた
※フリードリヒがフランスと同盟を結んだことを、「外交革命」という
→これだけ味方につけたため、フリードリヒが1756年にはじめた七年戦争では、
プロイセンが苦戦した
※しかし、1763年に有利な和平を結んでシュレジエンを確保し、
ヨーロッパの強国の位置についた
・フリードリヒは、「君主は国家第一の僕」と自称していた
※フリードリヒなどは、ヴォルテールなどのフランス啓蒙思想を参考にし、
内政面で以下のようなことを行った
→・信教の自由を認めた
・産業の育成を認めた
・司法の改革を行った
=以上のような動きによって、国民の福祉の向上を目標にかかげた政策を展開した
・プロイセンなどでは、西ヨーロッパで改革の担い手になった市民層の成長が十分ではなかった
→このため、君主主導で改革をすすめる体制(「上からの近代化」)がとられた
=この体制を、啓蒙専制主義という
※フリードリヒは、啓蒙専制君主の典型とされていた
→しかし、その統治はユンカーを支柱とする非近代的な性格の強いものだった
→そのため、農民の農奴的地位は改善されなかった
・オーストリアでも、マリア=テレジアがプロイセンとの戦争に備えて、
様々な内政の改革を行った
→マリア=テレジアの子どものヨーゼフ2世という人は、啓蒙専制君主として、
宗教面での寛容政策や農奴解放など、上からの近代化につとめた
※しかし、ヨーゼフの中央集権的な改革は、特権を守ろうとする貴族や地域社会から
強い抵抗を受けた
=結果的に改革は、挫折したものが多かった
※オーストリアのハプスブルク家は、チェック人の住むベーメン王国、
マジャール人のハンガリー王国、北イタリア地方、ベルギーなどを支配していた
=そのため、ヨーゼフの画一的な改革は民族の感情の反発を招いていた
ポイント
・プロイセンとオーストリアの様子についておさえる
このあたりが今回のポイントです