西ヨーロッパ勢力の進出とインドの植民地化について
西ヨーロッパ勢力の進出とインドの植民地化について考えてみます
・西ヨーロッパ勢力の進出について
※西欧の国々の進出までの流れについて
・西欧の勢力が進出する以前のインド洋世界には、港市を結ぶネットワークが形成されていた
→このネットワークでは、ムスリム商人やインド商人が活躍していた
・15世紀の終わりにヴァスコ=ダ=ガマという人によってインドへの直接の航路が
発見されるようになった
→すると、ヨーロッパの商業勢力がインド洋世界への新たな参加者として登場した
・西ヨーロッパ勢力の動きとインドの植民地化について
・ヨーロッパの商業勢力の活動が本格化する17世紀から18世紀にかけてのインドは、
商品経済の発展を背景に、各地で政治経済活動が活発化し、
地方政権が力をつけていった時期だった
・オランダ、イギリス、フランスなど、ヨーロッパ各国の東インド会社が、
以下のようなことを行っていた
→・ヨーロッパで需要が大きかったインド産の綿布の獲得を目指していた
・そこで、インドに各地に着々と商館を建設し、商業活動を拡大した
・その対価として、インドへ金や銀を大量に持ち込んできた
=このような、綿布を中心の輸出商品とする対外交易の拡大と、大量の金や銀の流入は、
農業生産物を現物で分配するということを基礎として成り立ってきたという
今までのインド経済の構造に大きな変化をもたらす要因になった
・地方政権の台頭に悩まされていたアウラングゼーブ帝が18世紀の初めに死去する
ということが起きた
→すると、ムガル帝国は支配領域をまとめていく政治的な力を急速に失っていった
=結果的に、ムガル帝国は名目的な存在になっていった
・一方で、地方の様々な勢力は、独立性をさらに高めていった
※そのため、お互いに軍事的な抗争を繰り返すようになっていった
・ヨーロッパの国々のうち、イギリスとフランスの両方の東インド会社は、
18世紀にはいってからも活発な商業活動を続けていた
→両方の東インド会社は、これらの抗争に関わらないでいつづけることが出来ず、
だんだんと抗争に巻き込まれていった
※さらに、両方の東インド会社は、インドとは無関係のヨーロッパでの対立を
持ち込むこともあった
→上のような対立の例として、以下のようなものがある
・18世紀のなかばに、インド南部のカーナティックと呼ばれた地域を舞台に、
オーストリア継承戦争や七年戦争と関連してイギリス、フランス、インドなどの
地方勢力が入り乱れて繰り広げられた戦争
・インド東部でベンガル地方政権とフランスとの連合勢力がイギリスと抗争した
1757年のプラッシーの戦い
=結局、軍事力と資金力が高かったイギリスは、1763年のパリ条約で
インドでのイギリスとフランスとの戦いに決着をつけた
→イギリスは、他のような争いも起きた
・インドの様々な勢力に対して、1765年にイギリスは東部でベンガルとビバールの
両方の地域の徴税権を獲得して、財政基盤を確保した
・南部で4回にわたるマイソール戦争、西部でのマラーター戦争、
西北部でのシク王国との戦争でイギリスはそれぞれ勝利をおさめた
=結果的にイギリスは、19世紀の半ばにインド全域を支配することに成功した
=以上のような流れを受けてイギリスは、一部は藩王国として間接統治とし、
他は直接支配するという体制を作った
※この体制によって、インドの政治的植民地化を完成させたと言われている
ポイント
・西欧の国々の進出についておさえる
・イギリスがインドを支配するまでの流れをおさえる
このあたりが今回のポイントです