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	<title>アラエス &#187; 学制</title>
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	<description>－全ての人に学びの空間を－</description>
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		<title>明治維新の時の動きをまとめてみた</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/2426</link>
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		<pubDate>Sat, 25 Jan 2014 09:02:11 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[橋本真夜中]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[明治時代前期]]></category>
		<category><![CDATA[五箇条の御誓文]]></category>
		<category><![CDATA[四民平等]]></category>
		<category><![CDATA[地租改正]]></category>
		<category><![CDATA[学制]]></category>
		<category><![CDATA[富国強兵]]></category>
		<category><![CDATA[廃藩置県]]></category>
		<category><![CDATA[徴兵制]]></category>
		<category><![CDATA[明治維新]]></category>
		<category><![CDATA[殖産興業]]></category>
		<category><![CDATA[版籍奉還]]></category>

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		<description><![CDATA[明治維新の時の動き &#160; &#160; 1868年3月・・京都で五箇条の御誓文（政府の新しい政治方針）を出す ※同時に、五榜の掲示（庶民の守る道）を示した &#160; 1868年に、年号を明治にした 同時に、江 [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/2426">明治維新の時の動きをまとめてみた</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>明治維新の時の動き</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>1868年3月・・京都で<strong>五箇条の御誓文</strong>（政府の新しい政治方針）を出す</p>
<p>※同時に、<strong>五榜の掲示</strong>（庶民の守る道）を示した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>1868年に、年号を明治にした</p>
<p>同時に、江戸を<strong>東京</strong>にした</p>
<p>※一緒に、天皇が東京に移動し、政府の役所を東京に集めた</p>
<p>※江戸城を皇居にした</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>→上のように、いろいろな権力を全て東京に集中させた</p>
<p>※この時に、同時に「藩」という制度を解体しようとした</p>
<p>→そのため1869年に、全国の藩主に領地と領民を天皇に返させた（＝<strong>版籍奉還</strong>）</p>
<p>※ただし、版籍奉還の後も旧藩主がそのまま藩の政治を行ったため、効果はあまりなかった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>→そこで、1871年に政府はすべての藩を廃止して県を置き、代わりに新しく県令（知事）を任命した（＝<strong>廃藩置県</strong>）</p>
<p>※藩は財政難で苦しんでいたところも多かったため、廃藩置県はスムーズに受け入れられた</p>
<p>＝廃藩置県によって、封建制が終了し、全国が政府の直接支配となった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>同時に政府は、<strong>四民平等</strong>を提唱し、身分制度を改めた</p>
<p>→この時に、以下のようなことが起きた</p>
<p>・公家や大名を華族、武士を士族、農工商を平民とした</p>
<p>・異なる身分での結婚、居住や職業選択の自由を認めた</p>
<p>・平民が苗字をつけることを認めた</p>
<p>・人身売買を禁止した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>※加えて、1871年に解放令によって、えた・ひにんも法律上は平民となったが、古い社会的差別は残っていた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>＝上記のような、幕末から明治初めにかけて行われた変革が、明治維新だった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>明治維新の裏で、政府は欧米の国々が東アジアに勢いをのばしてくることに危機感を抱いた</p>
<p>→そこで、明治政府は日本の近代化を考えて、以下のようなことを行った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・「<strong>富国強兵</strong>」をスローガンに、国力の充実を目指した</p>
<p>・幕府や諸藩が持っていた造船所や鉱山を引き継いだり、新しく官営の製糸場などを作って機械の力で生産を行ったりした（＝<strong>殖産興業</strong>）</p>
<p>・武士中心の軍隊から、西洋的な軍隊にするために<strong>徴兵制</strong>を採用</p>
<p>　→20以上の男子は身分に関係なく兵役（<strong>国民皆兵</strong>）</p>
<p>※徴兵制は、士族の特権否定、庶民への新しい負担、という理由から反発</p>
<p>・<strong>地租改正</strong>の実施（田畑の売買の禁止の撤廃、地券の発行、地価の3％、土地所有権が認められる）</p>
<p>・<strong>学制</strong>の公布（寺子屋がベース）</p>
<p>&nbsp;</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/2426">明治維新の時の動きをまとめてみた</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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	</item>
		<item>
		<title>明治時代の教育と科学について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1278</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1278#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 28 Oct 2013 03:23:43 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[副店長]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[明治時代後期]]></category>
		<category><![CDATA[不敬事件]]></category>
		<category><![CDATA[九帝大]]></category>
		<category><![CDATA[国定教科書]]></category>
		<category><![CDATA[大隈重信]]></category>
		<category><![CDATA[学制]]></category>
		<category><![CDATA[学校令]]></category>
		<category><![CDATA[忠君愛国]]></category>
		<category><![CDATA[教育令]]></category>
		<category><![CDATA[教育勅語]]></category>
		<category><![CDATA[東京大学]]></category>

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		<description><![CDATA[明治時代の教育と科学について考えてみます &#160; &#160; ・明治時代の教育について &#160; &#160; 　・１８７２年に、学制という法律が作られ、小学校教育が普及する努力が 　　行われるようになった  [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1278">明治時代の教育と科学について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>明治時代の教育と科学について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・明治時代の教育について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１８７２年に、学制という法律が作られ、小学校教育が普及する努力が</p>
<p>　　行われるようになった</p>
<p>　　→その結果、義務教育によって学校に行くようになる率が高まっていった</p>
<p>　　　※しかし、学制は地方の状況を無視して全員に強制かつ同じように扱われたため、</p>
<p>　　　　政府の中からも外からも批判された</p>
<p>　　　　＝そのため、１８７９年に学制が無くなり、教育令という法律が</p>
<p>　　　　　出されるようになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・教育令では、全国画一だった学区制という制度を無くした</p>
<p>　　→その時に、町村を小学校の設置の単位にした</p>
<p>　　　※小学校の管理は地方に任せ、学校に行く義務は大幅に緩くなった</p>
<p>　　　　</p>
<p>　　　※しかし、今まで強制されていたのに突然放任に変えたため、</p>
<p>　　　　大きな混乱の状態になってしまった</p>
<p>　　　　→そのため、教育令が出た次の年に内容が変えられ、</p>
<p>　　　　　小学校教育で政府が監督することが強調された</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　→上のような流れを受けて、１８８６年に、森有礼文部大臣によって、</p>
<p>　　学校令というものが出された</p>
<p>　　＝学校を、小学校、中学校、師範学校、帝国大学などの学校に通う</p>
<p>　　　というような仕組みを作った</p>
<p>　　＝さらに、尋常小学校と高等小学校のそれぞれの４年のうち、</p>
<p>　　　尋常小学校の３～４年を義務教育にした</p>
<p>　　　※その後、１９０７年に義務教育が６年間に延ばされた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※学校令について</p>
<p>　　　　・小学校令、中学校令、師範学校令、帝国大学令などをまとめて学校令という</p>
<p>　　　　・小学校、中学校、師範学校は、それぞれ尋問・高等の２種類に分けられた</p>
<p>　　　　　→その中で、尋問中学校が中学校、高等中学校が高等学校に名前を変えた</p>
<p>　　　　・唯一の官立大学であった東京大学は、帝国大学に組み替えられた</p>
<p>　　　　　→帝国大学は、１８９７年に東京帝国大学に名前が変わった</p>
<p>　　　　</p>
<p>　　　※１８９２年の時は、学校に行く率が男子は７０％、女子は３６％だった</p>
<p>　　　　→その後、１９００年に義務教育の期間の授業料が無料になったため、</p>
<p>　　　　　学校に行く率が１９０２年に９０％を超えた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・明治時代の教育では、様々な制度が作られている裏で、</p>
<p>　　国家主義を重視する教育政策を採用する方向に向かっていった</p>
<p>　　→そこで、１８９０年に出された教育に関する勅語（教育勅語）というものを出して、</p>
<p>　　　忠君愛国の考え方が学校教育の根本であることが強調された</p>
<p>　　　※忠君愛国・・天皇に仕えて、国を愛する、という考え方のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※忠君愛国について、１８９１年に、キリスト教徒の内村鑑三という人が、</p>
<p>　　　　自分が講師だった第一高等中学校での教育勅語奉読式という式の時に、</p>
<p>　　　　教育勅語への拝礼を拒否したため、内村鑑三が責められるという事件が起きた</p>
<p>　　　　＝この出来事を不敬事件という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１９０３年に小学校の教科書で国定教科書を使うことが決められ、</p>
<p>　　教育を国家がコントロールする動きが強まった</p>
<p>　　※国定教科書・・文部省が作った教科書のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・官立の高等教育機関が作られるようになっていった</p>
<p>　　→東京大学に加えて、１８９７年に京都帝国大学、</p>
<p>　　　その後に東北や九州などのそれぞれの帝国大学が作られていった</p>
<p>　　　※結果的に、大正から昭和初期の間に、北海道、京城（朝鮮）、台北（台湾）</p>
<p>　　　　名古屋、大坂にそれぞれの帝国大学が作られていった</p>
<p>　　　　＝これらの帝国大学を、「９帝大」という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>　・民間では、大隈重信が作った東京専門学校（現在の早稲田大学）などの</p>
<p>　　私立学校が作られていった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・明治時代の科学について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・明治の初めに、欧米から多くの専門的な学者を呼んできたことで、</p>
<p>　　近代的な学問の研究が本格的に始まった</p>
<p>　　→その後、日本人の学者が自分達でそれぞれの分野の専門的な研究や教育が</p>
<p>　　　行われるようになっていった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・経済学の分野では、最初にイギリスの経済学が入ってきて、</p>
<p>　　その後にドイツの考え方が中心になった</p>
<p>　　※イギリス経済学・・自由放任にする経済政策や自由貿易などを主張する経済学</p>
<p>　　　ドイツ経済学・・保護貿易や社会政策の推進などを主張する経済学</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・法律学の分野では、最初にフランスから来たボアソナードという人が</p>
<p>　　法典の編纂をしたことで始まった</p>
<p>　　→しかし、その後に起きた民法典論争がきっかけで、ドイツの法律学が中心になった</p>
<p>　　　※そのため、哲学の分野でもドイツ観念論という考え方を中心とした</p>
<p>　　　　ドイツの哲学が中心になった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・自然科学の分野では、富国強兵や殖産興業などのための政策を行うために、</p>
<p>　　欧米の近代的な科学技術を日本に取り入れるようになった</p>
<p>　　→さらに、外国人の指導者の指導もあって、日本は世界レベルの研究結果も</p>
<p>　　　発表されるようになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>　・日本史と日本文学の分野では、西洋の研究の方法が取り入れられた</p>
<p>　　→そのため、日本史や日本文学などで科学的な研究が始まり、</p>
<p>　　　今までの国学者の研究が新しくなった</p>
<p>　　　</p>
<p>　　※日本史の分野では、田口卯吉という人の「日本開化小史」というものを</p>
<p>　　　代表とした文明史論が出てきた</p>
<p>　　　→この考え方によって、当時の歴史の見方が変わったと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※東京帝国大学では、史料編纂掛というところが「大日本史料」や</p>
<p>　　　「大日本古文書」など、基本的な資料を編纂する事業が行われた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※当時の科学的な研究は、日本に昔からある伝統的な考え方とぶつかることがあった</p>
<p>　　　→１８９１年には、帝国大学の教授だった久米邦武という人が、</p>
<p>　　　　神道は宗教ではないという考えによって「神道は祭天の古俗」と論じたため、</p>
<p>　　　　国粋主義者などに責められるという事件が起きた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・明治時代の教育について押さえる</p>
<p>・明治時代の科学について様々な分野を押さえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p>
<p>&nbsp;</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1278">明治時代の教育と科学について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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		<item>
		<title>文明開化について①　－思想・教育・文学－</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1250</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1250#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 27 Oct 2013 21:11:22 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[トクホンクリーム]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[明治時代前期]]></category>
		<category><![CDATA[中江兆民]]></category>
		<category><![CDATA[天賦人権の思想]]></category>
		<category><![CDATA[学制]]></category>
		<category><![CDATA[教育令]]></category>
		<category><![CDATA[文明開化]]></category>
		<category><![CDATA[明六社]]></category>
		<category><![CDATA[明六雑誌]]></category>
		<category><![CDATA[東京大学]]></category>
		<category><![CDATA[活字印刷]]></category>
		<category><![CDATA[福沢諭吉]]></category>

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		<description><![CDATA[文明開化について考えてみます &#160; &#160; ・文明開化について &#160; 　※日本は近代化を目指して、西洋の様々なスタイルを取り入れていた 　　→この動きと一緒に、明治時代の初期の人々の生活で、 　　　 [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1250">文明開化について①　－思想・教育・文学－</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>文明開化について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・文明開化について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　※日本は近代化を目指して、西洋の様々なスタイルを取り入れていた</p>
<p>　　→この動きと一緒に、明治時代の初期の人々の生活で、</p>
<p>　　　文明開化と呼ばれる新しい風潮が出てきた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・文明開化の時の思想について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・儒教や神道の考え方は古くて時代遅れということで、排除されるようになった</p>
<p>　　→その代わりに、自由主義や個人主義などと呼ばれる西洋の近代思想が流行した</p>
<p>　　　※当時はミルやスペンサー、ダーウィンなどの人達の本が読まれるようになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　</p>
<p>　・福沢諭吉という人などが提唱した天賦人権の思想が広まった</p>
<p>　　※天賦人権の思想・・人々は生まれながらに平等で、</p>
<p>　　　　　　　　　　　　人間としての権利を持っているという考え方のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・この当時に、中江兆民という人がフランスに留学して、</p>
<p>　　ルソーの社会契約説などを日本に紹介した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>　・当時は、福沢諭吉の「西洋事情」「学問のすゝめ」「文明論之概略」、</p>
<p>　　中村正直という人が訳したスマイルズという人の「西国立志論」、</p>
<p>　　ミルの「自由之理」などが読まれた</p>
<p>　　→これらの本は、人々の考えを変える上で重要な役割を果たした</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・文明開化の時の教育について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１８７１年に文部省を作って、１８７２年に学制という法律を出した</p>
<p>　　→その時に政府は、小学校教育に力を入れて、男女関係なく等しく勉強させるという</p>
<p>　　　国民皆学教育を目指した</p>
<p>　　　※この時の教育は、功利主義という考え方のような教育観を狙っていた</p>
<p>　　　※学制は、現実にあまりにも合わなかったために、</p>
<p>　　　　１８７９年の教育令という法律で改められた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１８７７年に、旧幕府の開成所と医学所をスタートとするいくつかの学校を統合して、</p>
<p>　　東京大学という大学を作り、多くの外国人教師を連れてきた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・教員を養成するために師範学校、産業教育や女子教育を行うための専門的な学校を作った</p>
<p>　　※１８７２年、東京に日本で初めての女学校が出来て、その後に女子師範学校も作られた</p>
<p>　</p>
<p>　　</p>
<p>　・教育制度は基本的に政府が積極的に行っていったが、</p>
<p>　　個人で学校を作って教育に関わっていった人もいた</p>
<p>　　→例：福沢諭吉の慶応義塾、新島襄の同志社　など</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>・文明開化の時の文学について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・幕末以降から、幕府が外国新聞の翻訳を行っていた</p>
<p>　　→この翻訳は明治になっても旧幕臣を続けていた</p>
<p>　　→さらに、本木昌造という人が鉛製活字の量産技術に成功して、</p>
<p>　　　活字印刷の技術が発達していった</p>
<p>　　　＝そのため、東京を中心に日刊新聞や雑誌がいくつも作られていった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・新聞や雑誌では、報道や政治問題の評論などを行うようになり、</p>
<p>　　新しい言論の活動が始まったと言われている</p>
<p>　　→そのため、学術書や啓蒙書の出版もさかんになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・西周、森有礼、福沢諭吉、加藤弘之、西村茂樹などの洋学者が</p>
<p>　　１８７３年に明六社という団体を作ってその次の年に「明六雑誌」を発行したり、</p>
<p>　　演説会を開いて近代思想を普及したりした</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・文明開化の時の思想を押さえる</p>
<p>・文明開化の時の教育を押さえる</p>
<p>・文明開化の時の文学を押さえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p>
<p>&nbsp;</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1250">文明開化について①　－思想・教育・文学－</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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		<item>
		<title>新政府の様々な政策について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1246</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1246#comments</comments>
		<pubDate>Sat, 26 Oct 2013 12:09:38 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[トクホンクリーム]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[明治時代前期]]></category>
		<category><![CDATA[内務省]]></category>
		<category><![CDATA[太政官]]></category>
		<category><![CDATA[学制]]></category>
		<category><![CDATA[家禄]]></category>
		<category><![CDATA[岩倉使節団]]></category>
		<category><![CDATA[廃藩置県]]></category>
		<category><![CDATA[徴兵制]]></category>
		<category><![CDATA[版籍奉還]]></category>
		<category><![CDATA[藩閥政府]]></category>
		<category><![CDATA[近衛兵]]></category>

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		<description><![CDATA[新政府の様々な政策について考えてみます &#160; &#160; ・新政府の様々な政策について &#160; &#160; 　・戊辰戦争の時に、新政府は没収した旧幕府の土地の中で、重要な土地を府、 　　それ以外の土地を [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1246">新政府の様々な政策について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>新政府の様々な政策について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・新政府の様々な政策について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・戊辰戦争の時に、新政府は没収した旧幕府の土地の中で、重要な土地を府、</p>
<p>　　それ以外の土地を県とした</p>
<p>　　※しかし、藩についてはそれぞれの大名が治める状況がそのまま続いていた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・政治的な統一を新政府が目指していたため、残された藩を新政府が</p>
<p>　　直接治めていく方針を立てた</p>
<p>　　→その結果、１８６９年１月に木戸孝允や大久保利通などが立てた計画によって、</p>
<p>　　　薩長土肥の４つの藩主が領地と領民を天皇に返すという事が起きた</p>
<p>　　　＝このように、藩主が領地と領民を天皇に返すことを版籍奉還という</p>
<p>　　　　※版・・版図（各藩の領地）のこと　　籍・・戸籍（各藩の領民）のこと</p>
<p>　　</p>
<p>　　→薩長土肥の４つの藩が版籍奉還を行うと、多くの藩も版籍奉還を行うようになった</p>
<p>　　→新政府は、６月に薩長土肥以外の全ての藩主にも版籍奉還を命令した</p>
<p>　　→版籍奉還によって新政府が全国を支配する権利を得た状態になった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※一方で新政府は以前の大名に、石高に代わるものとして家禄を与えること、</p>
<p>　　　以前の領地の知藩事（地方長官）に任命して藩の政治を担当させること、</p>
<p>　　　などを行った</p>
<p>　　　・家禄・・主君が自分の家臣に与えた褒美のこと　　　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　＝以上のようにして、藩主の家禄と藩の財政をはっきりと分けた</p>
<p>　　</p>
<p>　　　※しかし、旧大名は実質的に温存されることになり、徴税と軍事の２つの権利は</p>
<p>　　　　今まで通りそれぞれの藩にあった</p>
<p>　　　　→そのため、新政府は限られた直轄地（府県）から年貢を取ることを厳しく行った</p>
<p>　　　　　＝結果的に、新政府に対する一揆が増えた</p>
<p>　　　　　＝さらに、藩でも江戸時代と変わらない税のスタイルに</p>
<p>　　　　　　人々が不満を持つようになった　</p>
<p>　　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・奇兵隊を中心とした長州藩にある多くの軍隊は、藩の軍事力の再編成に反対した</p>
<p>　　→そのため、奇兵隊は武力で鎮圧された</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・上のような状況で、新政府は藩制度を全て撤廃することを決めた</p>
<p>　　→・そこで、まず１８７１年に、薩摩、長州、土佐の３つの藩から御親兵という</p>
<p>　　　　軍隊を集めて軍事力を固めた</p>
<p>　　　・そして、７月に廃藩置県（藩をやめて県にすること）を一気に行った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※廃藩置県によってどう変わっていったのか</p>
<p>　　　　・全ての藩が無くなり、府県になった</p>
<p>　　　　　→最初は１使（開拓使）、３府（東京、大阪、京都）、３０２県だった</p>
<p>　　　　　→その後１使３府７２県になり、さらにその後は１道３府４３県になった</p>
<p>　　　　・旧大名だった知藩事はクビにされて、旧大名は東京に居住することを命令された</p>
<p>　　　　・中央政府が派遣する府知事や県令が地方の行政が担当した</p>
<p>　　　　　＝このようにしたことで、国内の政治的な統一が完成した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・廃藩置県と同時に、中央政府の組織を整備した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→どのように整備したのか</p>
<p>　　　</p>
<p>　　　・版籍奉還の時に、政体書を中心とした太政官制が変更となった</p>
<p>　　　　＝祭政一致や天皇親政の方針から大宝令のスタイルを復活させた</p>
<p>　　　　　→神祇官を太政官の上に置いて、太政官の下に各省を置くスタイルになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　・廃藩置県の後に、太政官を正院、左院、右院の三院制にした</p>
<p>　　　　※正院・・政治の最高機関で、太政大臣、左大臣、右大臣の３大臣と参議で構成された</p>
<p>　　　　　左院・・立法機関で、正院の考えに意見を述べていた</p>
<p>　　　　　右院・・各省の長官と次官を集めて、省の事務について議論した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　・正院の下に各省を置くスタイルに変えた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・新政府の中では、三条実美や岩倉具視などの公家と、薩長土肥の４つの藩にいる若い実力者を</p>
<p>　　参議や各省の長官や次官に使うことで、権力を握るようになった</p>
<p>　　＝このように、公家と薩長土肥を中心とした政治のスタイルを、藩閥政府という</p>
<p>　　　</p>
<p>　　　※藩閥政府には、どのような人が起用されたのか</p>
<p>　　　　・薩摩藩から・・西郷隆盛、大久保利通、黒田清隆</p>
<p>　　　　・長州藩から・・木戸孝允、伊藤博文、山県有朋、井上馨</p>
<p>　　　　・土佐藩から・・板垣退助、後藤象二郎、佐々木高行</p>
<p>　　　　・肥前藩から・・大隈重信、江藤新平、副島種臣、大木喬任</p>
<p>　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１８７１年に、岩倉具視などの多くの政府のトップを含めた大きな使節団を</p>
<p>　　欧米の国々に派遣した</p>
<p>　　＝この時に派遣した使節団を岩倉使節団という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・西郷隆盛を中心とした留守政府は、１８７３年までに学制、徴兵制、地租改正などを行った</p>
<p>　　※留守政府・・岩倉使節団がいない時の明治政府のこと</p>
<p>　　　学制・・文部省が出した教育に関する法律のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１８７１年に、政府の直轄軍として作られた御親兵が近衛兵になった</p>
<p>　　→近衛兵が、天皇の警護などを行った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>　・廃藩置県の時に藩の兵が解散させられた</p>
<p>　　→しかし、一部は兵部省という省の下でそれぞれの場所に作られた鎮台に配置されて、</p>
<p>　　　反乱や一揆に備えた</p>
<p>　　　※１８７２年に兵部省は陸軍省と海軍省に分けられた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１８７２年に徴兵告諭（徴兵の呼びかけ）に基づいて１８７３年１月に徴兵令を出した</p>
<p>　　</p>
<p>　　※徴兵制について</p>
<p>　　　・徴兵令は国民皆兵（国民全員が兵になる義務を負うこと）が原則だった</p>
<p>　　　・徴兵令によって、士族や平民などの区別なく、満２０歳になった男子から選ばれて、</p>
<p>　　　　３年間の兵役を行うことになった</p>
<p>　　　・徴兵制を使った軍隊を作るという考え方は、長州藩の大村益次郎という人が考えた</p>
<p>　　　　→大村益次郎が暗殺された後は、奇兵隊の指揮官だった山県有朋という人が引き継いで実現した</p>
<p>　　　・徴兵制では、官吏、学生、２７０円を納めた人は兵役が免除された</p>
<p>　　　　＝そのため、兵役を行ったのはほとんどが農村の人達だった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１８７１年に邏卒が置かれた</p>
<p>　　※邏卒・・明治時代の警察官の呼び方のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１８７３年に内務省という省が置かれた</p>
<p>　　→内務省は、殖産興業（当時の産業を保護して育てる政策）、地方行政、警察の</p>
<p>　　　まとめ役のようなことを行った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１８７４年に警視庁が置かれた</p>
<p>　　→この時に、邏卒は巡査と名前が変えられた</p>
<p>　　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・新政府が行った様々な政策を押さえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p>
<p>&nbsp;</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1246">新政府の様々な政策について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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