新政府の様々な政策について

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投稿者:       投稿日時:2013/10/26 21:09      
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新政府の様々な政策について考えてみます

 

 

・新政府の様々な政策について

 

 

 ・戊辰戦争の時に、新政府は没収した旧幕府の土地の中で、重要な土地を府、

  それ以外の土地を県とした

  ※しかし、藩についてはそれぞれの大名が治める状況がそのまま続いていた

 

 

 ・政治的な統一を新政府が目指していたため、残された藩を新政府が

  直接治めていく方針を立てた

  →その結果、1869年1月に木戸孝允や大久保利通などが立てた計画によって、

   薩長土肥の4つの藩主が領地と領民を天皇に返すという事が起きた

   =このように、藩主が領地と領民を天皇に返すことを版籍奉還という

    ※版・・版図(各藩の領地)のこと  籍・・戸籍(各藩の領民)のこと

  

  →薩長土肥の4つの藩が版籍奉還を行うと、多くの藩も版籍奉還を行うようになった

  →新政府は、6月に薩長土肥以外の全ての藩主にも版籍奉還を命令した

  →版籍奉還によって新政府が全国を支配する権利を得た状態になった

 

  ※一方で新政府は以前の大名に、石高に代わるものとして家禄を与えること、

   以前の領地の知藩事(地方長官)に任命して藩の政治を担当させること、

   などを行った

   ・家禄・・主君が自分の家臣に与えた褒美のこと   

 

  =以上のようにして、藩主の家禄と藩の財政をはっきりと分けた

  

   ※しかし、旧大名は実質的に温存されることになり、徴税と軍事の2つの権利は

    今まで通りそれぞれの藩にあった

    →そのため、新政府は限られた直轄地(府県)から年貢を取ることを厳しく行った

     =結果的に、新政府に対する一揆が増えた

     =さらに、藩でも江戸時代と変わらない税のスタイルに

      人々が不満を持つようになった 

  

 

 ・奇兵隊を中心とした長州藩にある多くの軍隊は、藩の軍事力の再編成に反対した

  →そのため、奇兵隊は武力で鎮圧された

 

 

 

 

 ・上のような状況で、新政府は藩制度を全て撤廃することを決めた

  →・そこで、まず1871年に、薩摩、長州、土佐の3つの藩から御親兵という

    軍隊を集めて軍事力を固めた

   ・そして、7月に廃藩置県(藩をやめて県にすること)を一気に行った

 

   ※廃藩置県によってどう変わっていったのか

    ・全ての藩が無くなり、府県になった

     →最初は1使(開拓使)、3府(東京、大阪、京都)、302県だった

     →その後1使3府72県になり、さらにその後は1道3府43県になった

    ・旧大名だった知藩事はクビにされて、旧大名は東京に居住することを命令された

    ・中央政府が派遣する府知事や県令が地方の行政が担当した

     =このようにしたことで、国内の政治的な統一が完成した

 

 

 

 ・廃藩置県と同時に、中央政府の組織を整備した

 

  →どのように整備したのか

   

   ・版籍奉還の時に、政体書を中心とした太政官制が変更となった

    =祭政一致や天皇親政の方針から大宝令のスタイルを復活させた

     →神祇官を太政官の上に置いて、太政官の下に各省を置くスタイルになった

 

   ・廃藩置県の後に、太政官を正院、左院、右院の三院制にした

    ※正院・・政治の最高機関で、太政大臣、左大臣、右大臣の3大臣と参議で構成された

     左院・・立法機関で、正院の考えに意見を述べていた

     右院・・各省の長官と次官を集めて、省の事務について議論した

 

   ・正院の下に各省を置くスタイルに変えた

 

 

 

 ・新政府の中では、三条実美や岩倉具視などの公家と、薩長土肥の4つの藩にいる若い実力者を

  参議や各省の長官や次官に使うことで、権力を握るようになった

  =このように、公家と薩長土肥を中心とした政治のスタイルを、藩閥政府という

   

   ※藩閥政府には、どのような人が起用されたのか

    ・薩摩藩から・・西郷隆盛、大久保利通、黒田清隆

    ・長州藩から・・木戸孝允、伊藤博文、山県有朋、井上馨

    ・土佐藩から・・板垣退助、後藤象二郎、佐々木高行

    ・肥前藩から・・大隈重信、江藤新平、副島種臣、大木喬任

 

 

 ・1871年に、岩倉具視などの多くの政府のトップを含めた大きな使節団を

  欧米の国々に派遣した

  =この時に派遣した使節団を岩倉使節団という

 

 

 ・西郷隆盛を中心とした留守政府は、1873年までに学制、徴兵制、地租改正などを行った

  ※留守政府・・岩倉使節団がいない時の明治政府のこと

   学制・・文部省が出した教育に関する法律のこと

 

 

 ・1871年に、政府の直轄軍として作られた御親兵が近衛兵になった

  →近衛兵が、天皇の警護などを行った

 

 

 ・廃藩置県の時に藩の兵が解散させられた

  →しかし、一部は兵部省という省の下でそれぞれの場所に作られた鎮台に配置されて、

   反乱や一揆に備えた

   ※1872年に兵部省は陸軍省と海軍省に分けられた

 

 

 

 ・1872年に徴兵告諭(徴兵の呼びかけ)に基づいて1873年1月に徴兵令を出した

  

  ※徴兵制について

   ・徴兵令は国民皆兵(国民全員が兵になる義務を負うこと)が原則だった

   ・徴兵令によって、士族や平民などの区別なく、満20歳になった男子から選ばれて、

    3年間の兵役を行うことになった

   ・徴兵制を使った軍隊を作るという考え方は、長州藩の大村益次郎という人が考えた

    →大村益次郎が暗殺された後は、奇兵隊の指揮官だった山県有朋という人が引き継いで実現した

   ・徴兵制では、官吏、学生、270円を納めた人は兵役が免除された

    =そのため、兵役を行ったのはほとんどが農村の人達だった

 

 

 ・1871年に邏卒が置かれた

  ※邏卒・・明治時代の警察官の呼び方のこと

 

 

 ・1873年に内務省という省が置かれた

  →内務省は、殖産興業(当時の産業を保護して育てる政策)、地方行政、警察の

   まとめ役のようなことを行った

 

 

 ・1874年に警視庁が置かれた

  →この時に、邏卒は巡査と名前が変えられた

  

 

ポイント

・新政府が行った様々な政策を押さえる

 

このあたりが今回のポイントです

 

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