戊辰戦争と新しい政府の動きについて
戊辰戦争と新しい政府の動きについて考えてみます
・戊辰戦争について
・徳川幕府を擁護する旧幕府側は、1868年1月に大坂城から京都に向かって攻撃した
→しかし、鳥羽と伏見で新政府軍に負けてしまい、
旧幕府側の徳川慶喜は江戸に逃げてしまった
=この戦いを鳥羽・伏見の戦いという
・鳥羽・伏見の戦いの後、徳川慶喜を追討するために新政府はすぐに
東征軍という軍隊を出発させた
→この時、徳川慶喜の命令を受けた勝海舟と東征軍の参謀(仕切る人)だった西郷隆盛が
交渉したことによって1868年4月に江戸城が無血開城になった
※無血開城・・戦わないで、守る側が攻める側に城を渡すこと
・東征軍は、奥羽越列藩同盟という同盟を結んだ東北の藩をどんどん倒していった
→そして9月に、奥羽越列藩同盟の中心だと思われた会津若松城という城を攻め落とした
・1869年5月に、箱館の五稜郭というところに立てこもっていた旧幕府の海軍の
榎本武揚などの軍が新政府軍に負けた
→以上のように、新政府軍がどんどん攻撃して倒していったので、
日本国内が新政府によってほぼ統一された状況になった
=1年半近く続いた上のような内戦を戊辰戦争という
※幕府の終了と新政府の誕生を、当時の人々は維新と呼んだ
→そのため、黒船が来てから廃藩置県を行うまでの時代の流れをまとめて
明治維新と呼ぶ
※東征軍について
・東征軍は、官軍とも呼ばれた
・豪農や豪商が自分達で組織した軍隊を義勇軍と言い、
東征軍は義勇軍を連れて参加していた
・義勇軍の中でも、相楽総三などを中心とした赤報隊という軍隊は、
幕府領の年貢を半減することを求めて
東山道を東に進んだため、農民の支持を得た
→しかし、赤報隊は偽官軍ということで新政府に処刑された
・新しい政府の動きについて
・戊辰戦争の状況の時に、新政府は新しい政治のための準備を始めた
→新政府が行った準備について
・1868年1月に、外国に対して王政復古と天皇が外交の権利を持ったことを伝えた
・1868年3月に、五箇条の誓文という政府の基本的な政策を国民に知らせた
→その時に、以下のようなことを強調した
・公議世論(人々が認める世論)を尊重すること
・開国和親(開国して外国と仲良くすること)こと
→公議世論と開国和親を国の政策の基本とした
・天皇が多くの役人を引き連れて、神に誓うというスタイルを採用した
=天皇が自分で政治を引っ張っていくことを強調した
・1868年4月に、政体書という法律を作り、政府の組織を整えた
※政体書を取り入れたことで、以下のようになった
・国家権力を、太政官と呼ばれる中央政府に集めた
・アメリカ合衆国憲法をマネした三権分立制というスタイルを取り入れた
・高級官吏を4年ごとに互選(関係者の中から互いに選挙して選ぶこと)で
交代させた
=以上のようにして、欧米に近い近代政治のスタイルを採用した
※政体書の現実について
・実際は、太政官での立法と行政は、はっきりと分かれてはいなかった
・官吏の互選は1回だけだった
・議政官という立法機関は、議定と参与で出来ている上局と、
それぞれの府県や藩から選ばれた貢士(藩を代表して議論に参加する人)が
集まっている下局で構成されていた
→中でも下局は次の年に公議所という施設に変わり、
その後集議院へと組み替えられていった
・7月に、関東の鎮圧と一緒に名前を江戸から東京に変えた
・9月に年号を明治と改めた
・9月に一世一元の制を採用した
※一世一元の制・・天皇1代につき元号を一つだけにするという制度のこと
・1869年に京都から東京に首都を移した
・五カ条の誓文を出した次の日に、全国に向けて五榜の掲示という立て札をかかげた
※五榜の掲示・・明治政府が民衆に対して出した5枚の立札のこと
→五榜の掲示では、儒教の道徳を推奨し、強訴やキリスト教などを
厳しく禁止した
=五榜の掲示は、江戸幕府までの民衆への政策を
そのまま引き継いでいたと言われている
ポイント
・戊辰戦争の時の動きを押さえる
・新しい政府の動きを押さえる
このあたりが今回のポイントです