殖産興業の明治時代の社会の変化について

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投稿者:       投稿日時:2013/10/28 06:08      
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殖産興業について考えてみます

 

 

・殖産興業について

 

 ※明治政府は、富国強兵を目指して、殖産興業に力を入れることになった

  ・富国強兵・・国の富を増やして、軍事力を大きくするという国のスローガンのこと

  ・殖産興業・・産業を保護したり育成したりして、活発にしていこうとする政策のこと

 

 

 

 

・どのようなことを行ったのか

 

 

 ・関所、助郷、宿駅などの撤廃

 ・株仲間などの独占の禁止

 ・身分に関する制度の廃止

 ・土地の所有者をはっきりさせる

  →このようにして、封建的な制度を無くすと同時に、

   自由な経済活動を行うための準備を行った

 

 

 ・お雇い外国人の指導をもとにして、近代の産業を政府自身が経営することで、

  産業を育てようとした

  ※お雇い外国人・・広い分野で知識や技術を取り入れるために、

           政府や民間に雇われた外国人のこと

 

 

 ・1870年に、工部省という省が作られた

  →1872年に、工部省が中心になって、新橋・横浜間に鉄道を敷いた

  →その後、神戸・大阪・京都間に鉄道を敷いた

   =このように鉄道を敷くことで、すでに開いてある港と大都市を結びつけた

 

 

 ・旧幕府が担当していた佐渡や生野などの鉱山や長崎造船所、

  旧藩が担当していた高島や三池などの炭鉱や兵庫造船所を国が強制的に取り上げて、

  これらを官営事業(国が経営する事業)にした

 

 

 ・軍備を近代化するために、東京と大阪に砲兵工廠という軍工廠(軍備に関する施設)を作った

  →その時に、旧幕府が作っていた横須賀造船所の拡大を行った

 

 

 

 ・1871年に前島密という人の意見によって、飛脚に代わるものとして郵便制度が出来た

  →郵便制度は、すぐに全国均一料金制を採用した

 

 

 ・1877年に万国郵便連合条約という条約に加盟して、その年に電話が日本に輸入された

 

 

 ・1869年に、東京・横浜間に電信線が設置された

  ※電信線・・電信機という機械で、情報を電信符号というものに変えて

        伝送する通信方式のこと

   →電信線は、5年後に長崎と北海道にまで伸ばされた

   →さらに、長崎・上海間の海底電線を通して、欧米とも接続された

 

 

 ・近海と沿岸の海運を国内の企業に支配させた

  ※海運・・海上輸送などを担当する業務のこと

 

 

 ・なにかあった時に、軍事輸送を行わせるために、土佐藩出身の岩崎弥太郎という人が

  経営していた三菱(郵便汽船三菱会社)という会社に手厚い保護を与えた

 

 

 ・当時は貿易赤字であり、貿易赤字の解消のために、

  輸出の中心だった生糸の生産を拡大させようとした

  →そこで1872年、群馬県に官営模範工場ということで

   富岡製糸場という工場を作った

   ※富岡製糸場は、フランスの技術の導入と普及、工女(工場で働く女性)の

    育成などを狙っていた

    

 

 

 ・1873年に内務省という省が誕生し、以下のような形で殖産興業に貢献した

  →・製糸や紡績などの官営模範工場を作った

   ・人力車や馬車などの交通の便を良くするために、道路の改修を行った

   ・農業や牧畜に西洋の技術を取り入れるために、

    駒場農学校や三田育種場などの施設を作った

 

 

 ・政府は北方を開発するために、1869年に蝦夷地を北海道という名前に変えて、

  開拓使を置いた

  ※開拓使について

   ・開拓使・・北海道を開発するための官庁のこと

   ・開拓使は、太政官が直接支配する役所で、本庁を最初は東京に置き、

    1871年に札幌に移した

   ・1882年に北海道の開拓が終わったので、開拓使を無くして、

    函館、札幌、根室の3つの県を置いた

   ・1886年に3つの県を無くして、北海道庁という官庁を作った

 

 

 ・北海道の開発のために、以下のようなことが行われた

  →・アメリカ式の大農場制度や畜産技術を取り入れた

   ・クラークという人を呼んできて、1876年に札幌農学校という学校を作った

   ・1874年に士族授産の目的もあって、屯田兵制度を作り、

    ロシアからの攻撃に備える体制を作った

    ※屯田兵・・北海道の警備と開発を同時に行った兵団のこと

 

 

 ※北海道の開発の時に、アイヌの問題があった

  →どういうことか・・

   ・北海道の開発の時に、アイヌの伝統的な生活や文化が失われていったと言われている

   ・そのことを知って政府は1899年に北海道旧土人保護法という法律を作った

    →しかし、アイヌの生活や文化が失われていく状況を食い止めることはできなかった

   ・そこで政府は1997年にアイヌ文化振興法という法律を作っている

 

 

 

 ・1871年に、金本位を前提とする新貨条例という条例を作った

  →この条例によって、十進法を採用したり、円・銭・厘を単位として

   新しい硬貨を作ったりした

   ※しかし、実際は開港場で銀貨が、国内で紙幣が主に使われていた

 

 

 ・1872年に、明治維新の時に作った太政官札という政府紙幣などと交換するために、

  新しい政府紙幣を作って日本国内の紙幣を統一させようとした

  ※新しい政府紙幣は、金貨や銀貨と交換できない紙幣(不換紙幣)だった

   

   →なぜ、政府は太政官札などを発行していたのか

    ・明治政府が出来た当初はお金が無かったため、京都の三井組や小野組、

     大坂の鴻池などの商人から御用金という臨時のお金の回収を行った

     =その時に、財源ということで、不換紙幣などを一緒に作成していた

 

 

 ・政府は、地主や商人などの民間の力を借りて、

  金貨と交換できる紙幣(兌換銀行券)を作ろうとした

  →そこで政府は、1872年に渋沢栄一という人を中心にして

   国立銀行条例という条例を作り、次の年に第一国立銀行などの銀行を作った

   =しかし、銀行の経営は難しく、すぐに兌換銀行券を使うという

    兌換制度を作ることはできなかった

 

 

 ・殖産興業が進められる時に、三井や岩崎(三菱)などの、民間の事業家が活躍した

  →そこで、活躍した事業家は政府から特権を与えられて、

   様々な分野を独占して利益を出していた

   =このような事業家を政商という

 

 

ポイント

・殖産興業と、殖産興業による様々な変化を押さえる

 

このあたりが今回のポイントです

 

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