<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<rss version="2.0"
	xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
	xmlns:wfw="http://wellformedweb.org/CommentAPI/"
	xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
	xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom"
	xmlns:sy="http://purl.org/rss/1.0/modules/syndication/"
	xmlns:slash="http://purl.org/rss/1.0/modules/slash/"
		xmlns:xhtml="http://www.w3.org/1999/xhtml"
>

<channel>
	<title>アラエス &#187; 寛政異学の禁</title>
	<atom:link href="http://ahlaes.com/post/tag/%e5%af%9b%e6%94%bf%e7%95%b0%e5%ad%a6%e3%81%ae%e7%a6%81/feed" rel="self" type="application/rss+xml" />
	<link>http://ahlaes.com</link>
	<description>－全ての人に学びの空間を－</description>
	<lastBuildDate>Thu, 23 Oct 2025 02:10:23 +0000</lastBuildDate>
	<language>ja</language>
		<sy:updatePeriod>hourly</sy:updatePeriod>
		<sy:updateFrequency>1</sy:updateFrequency>
	<generator>https://wordpress.org/?v=3.8.41</generator>
<xhtml:link rel="alternate" media="handheld" type="text/html" href="http://ahlaes.com/post/tag/%e5%af%9b%e6%94%bf%e7%95%b0%e5%ad%a6%e3%81%ae%e7%a6%81/feed" />
	<item>
		<title>陽明学・古学・古義学・古文辞学・古学派・寛政異学の禁について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1630</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1630#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 14 Nov 2013 19:30:48 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[ゴンショウ]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本思想前期　－古代・中世・近世・幕末－]]></category>
		<category><![CDATA[中江藤樹]]></category>
		<category><![CDATA[伊藤仁斎]]></category>
		<category><![CDATA[古学]]></category>
		<category><![CDATA[古学派]]></category>
		<category><![CDATA[古文辞学]]></category>
		<category><![CDATA[古義学]]></category>
		<category><![CDATA[寛政異学の禁]]></category>
		<category><![CDATA[山鹿素行]]></category>
		<category><![CDATA[荻生徂徠]]></category>
		<category><![CDATA[陽明学]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://ahlaes.com/?p=1630</guid>
		<description><![CDATA[陽明学と、古学・古義学・古文辞学の古学派について考えます &#160; &#160; &#160; ・陽明学について 　→日本の陽明学を生み出したのは、中江藤樹という人だった &#160; 　・中江藤樹について 　　 　 [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1630">陽明学・古学・古義学・古文辞学・古学派・寛政異学の禁について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>陽明学と、古学・古義学・古文辞学の古学派について考えます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・陽明学について</p>
<p>　→日本の陽明学を生み出したのは、中江藤樹という人だった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・中江藤樹について</p>
<p>　　</p>
<p>　　・人を愛し敬うこと（＝孝）が道徳の根本だと考えた</p>
<p>　　　→ただし、親子だけでなく、主従関係や夫婦・友人などの様々な人間関係に</p>
<p>　　　　孝が当てはまると考えた</p>
<p>　　　※孝は、全てに当てはまる考え方だが、時と場所と身分に合わせて</p>
<p>　　　　使わないといけないと考えた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・人が生まれながらに持っている正しい判断力（＝良知）が重要として、</p>
<p>　　　自分の良知を発揮させるべきと考えた</p>
<p>　　　※中江藤樹は、良知を孝の最も基礎の部分だと考えた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・「翁問答」という本を書いた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・古学について</p>
<p>　→日本で古学を提唱したのは、山鹿素行という人だった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・山鹿素行について</p>
<p>　</p>
<p>　　・儒学の立場から、当時存在していた武士道を批判し、士道を提唱した</p>
<p>　　　※武士道：武士は名前を重視すること、恥を知ること、</p>
<p>　　　　　　　　君主に対してわが身を犠牲にして委ねることなどを提唱した</p>
<p>　　　　士道：武士は礼儀を重視すること、威厳を持って、人格を立派にし、</p>
<p>　　　　　　　欲のために心を動かさないことなどを提唱した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※なぜ、武士道はダメで、士道が良いと考えたのか</p>
<p>　　　　→山鹿素行は、「武士は、道徳については指導者でなければいけない」と考えていて、</p>
<p>　　　　　武士道では、道徳の指導者になれないと思ったから</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・朱子学の考えの一つに含まれている「天理」を、抽象的だとして批判した</p>
<p>　　　→抽象的だと実行できないと考え、道理を日常生活の実用的な範囲に限定して、</p>
<p>　　　　欲望などを容認した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→天理のような考え方が生まれるのは、孔子や周公の考え方を様々な形で</p>
<p>　　　解釈していくうちにどんどん抽象的な方向に向かってしまったのが原因だから、</p>
<p>　　　孔子や周公の後の時代に生まれた考え方を無視して、</p>
<p>　　　直接孔子や周公の考え方を学ぶべきだと考えた</p>
<p>　　　＝そのため、このような考え方を古学と言い、山鹿素行が古学を提唱した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※山鹿素行は「聖教要録」という本を書き、その中で朱子学を批判したため、</p>
<p>　　　島流しの刑となった</p>
<p>　</p>
<p>　　※江戸時代中期に、武士道について、山本常朝という人が、「葉隠」という本で</p>
<p>　　　「武士道といふは死ぬことと見付けたり」と考えた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・山鹿素行の古学はその後、古義学と古文辞学に分かれた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・古義学について</p>
<p>　　→古義学を生み出したのは、伊藤仁斎という人だった</p>
<p>　　</p>
<p>　　※古義学とは・・古学の中でも、「論語」や「孟子」などを</p>
<p>　　　　　　　　　　緻密に読み解く勉強の方法を提唱した学問のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・伊藤仁斎について</p>
<p>　</p>
<p>　　・全ての物事は生まれ働き動き続けるので、止まることがない</p>
<p>　　　そのため、私達の生きている世界は、変化し続ける「一大活物」というふうにとらえた</p>
<p>　　　※人間関係も同じで、頻繁に会う身近な人との交流以外に、人間関係は無いと考えた</p>
<p>　　　　＝自分と全く関係ない人は、自分と交流関係があるとは言えない</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→そこで伊藤仁斎は、上のような考え方から、</p>
<p>　　　「仁は愛のみ」「われよく人を愛すれば、人またわれを愛す」と考えた</p>
<p>　　　※仁とは・・人と人の関わりにおいて自分と他人がとがお互いに親しみ、</p>
<p>　　　　　　　　　お互いに愛することで、伊藤仁斎は、仁を行為の中で理想だと考えた</p>
<p>　　　※しかし、仁はかすむ程度で弱いため、他人の苦しみを直接感じることは</p>
<p>　　　　できないと考えた</p>
<p>　　　　→そこで、仁を全ての場面で広く、深く実現されるために・・</p>
<p>　　　　　・他人に自分をつくして、全くウソをつかないこと（＝忠信）が大切だと考えた</p>
<p>　　　　　・「論語」や「孟子」などを学び、他人にとってふさわしい行動（＝義）を</p>
<p>　　　　　　知るべきだと考えた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・伊藤仁斎は、仁を達成することで誠に近づけると考えた</p>
<p>　　　※誠とは・・人と人との関わる時に、飾ったりすることなく純粋な心で対応できること</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・「童子問」や「語孟字義」という本を書いた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・古文辞学について</p>
<p>　　→古文辞学を生み出したのは荻生徂徠という人だった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※古文辞学とは・・「六教」を学ぼうとした時に、「六教」は古文辞で書かれているから、</p>
<p>　　　　　　　　　　　古文辞を学んで、「六教」を学ぼうとする学問のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　</p>
<p>　・荻生徂徠について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・荻生徂徠は、「天下を安んずるの道（安天下の道）」を考えた</p>
<p>　　　→この考え方から、儒学の重要な部分は、人々の生活が安定し、</p>
<p>　　　　人々が安心して生きられることを自覚すること＝経世済民だと考えた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・荻生徂徠がここで言う「道」とは、自然などの道理ではなく、</p>
<p>　　　政治を行う人のために聖人（儒教で理想とされた人達のこと）によって</p>
<p>　　　作られた礼楽刑政のことを指している</p>
<p>　　　＝礼楽刑政は、尭や舜（２人とも聖人）などによって作られた</p>
<p>　　　　儀礼・音楽・刑罰・政治などの制度や習慣、風習だと考えた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・荻生徂徠は、上のような考え方から、</p>
<p>　　　→人々の生活が安定するとは、「人々の意見や才能を育てて発揮させること」であり、</p>
<p>　　　　礼楽刑政はその手段として使うべきだと考えた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・礼楽刑政は、「論語」以前の書物の六経に古文辞（古語）で記されているから、</p>
<p>　　　礼楽刑政を知るためには、古文辞を学ばなければいけないと考えた</p>
<p>　　　→このような考え方から、荻生徂徠は古文辞学を生み出し、古文辞学を重視した</p>
<p>　　　※六経－五経に「楽経」を加えたもののこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・「弁道」という本を書いた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>※山鹿素行、伊藤仁斎、荻生徂徠らをまとめて、古学派と言う</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・寛政異学の禁について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・寛政異学の禁とは・・聖堂学問所で朱子学以外の儒学の講義をすることを</p>
<p>　　　　　　　　　　　　禁止した出来事のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・具体的な流れ</p>
<p>　　・江戸幕府は、聖堂学問所（後の昌平坂学問所）を設置するなど、</p>
<p>　　　儒学を使っての武士の教育を行ったが、寛政の改革の時に寛政異学の禁が出されて、</p>
<p>　　　儒学の勢いが弱まった</p>
<p>　　　※一方で、藩校や私塾などが多く設けられ、儒学の考え方は少しずつ浸透していった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　※この出来事に関しての注意点</p>
<p>　</p>
<p>　　・なぜ、朱子学以外の儒学を禁止したのか</p>
<p>　　　→朱子学は、儒学の中でも、身分制度の意識が強く、</p>
<p>　　　　幕府が身分制度を根付かせたかったからだと言われている</p>
<p>　</p>
<p>　　・なぜ、寛政異学の禁が出されたのに、藩校や私塾で儒学は教えていたのか</p>
<p>　　　→寛政異学の禁が出されたのは、聖堂学問所だけで、それ以外には出されていないから</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・では、なぜ全国的に禁止にしないのか</p>
<p>　　　→当時の幕藩体制は、幕府と地方で政策が違い、幕府が寛政異学の禁について</p>
<p>　　　　地方に口出しをしなかったからだと言われている</p>
<p>　　　　</p>
<p>　　　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・中江藤樹が陽明学を生み出し、孝を重視した上で、良知を孝の根本に置いた</p>
<p>・山鹿素行が古学を生み出し、儒学の立場から武士道を批判した上で士道を主張した</p>
<p>・山鹿素行は、朱子学の天理を抽象的と批判し、道理を日常生活の範囲に限定すると同時に、</p>
<p>　欲望や情念を容認した</p>
<p>・山鹿素行は、後世を無視して、孔子や周公の考え方を学ぶべきだとして、古学を提唱した</p>
<p>・山本常朝が「葉隠」を書いた</p>
<p>・伊藤仁斎が古義学を生み出し、仁を提唱した</p>
<p>・伊藤仁斎は、仁のために忠信と義を重視し、仁を達成することで誠に近づけると考えた</p>
<p>・荻生徂徠は、古文辞学を生み出し、安天下の道を考え、礼楽刑政を提唱した</p>
<p>・古義学と古文辞学をまとめて古学と言う</p>
<p>・山鹿素行、伊藤仁斎、荻生徂徠らをまとめて古学派と言う</p>
<p>・儒学と朱子学に関連して、江戸時代に寛政異学の禁が出された</p>
<p>&nbsp;</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1630">陽明学・古学・古義学・古文辞学・古学派・寛政異学の禁について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://ahlaes.com/post/1630/feed</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
	<xhtml:link rel="alternate" media="handheld" type="text/html" href="http://ahlaes.com/post/1630" />
	</item>
		<item>
		<title>化政文化の時の教育と儒学について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1236</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1236#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 24 Oct 2013 19:58:08 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[パワフルくん]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[江戸時代後期]]></category>
		<category><![CDATA[古学派]]></category>
		<category><![CDATA[寛政異学の禁]]></category>
		<category><![CDATA[懐徳堂]]></category>
		<category><![CDATA[昌平坂学問所]]></category>
		<category><![CDATA[朱子学]]></category>
		<category><![CDATA[松下村塾]]></category>
		<category><![CDATA[石田梅岩]]></category>
		<category><![CDATA[藩学]]></category>
		<category><![CDATA[貝原益軒]]></category>
		<category><![CDATA[郷学]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://ahlaes.com/?p=1236</guid>
		<description><![CDATA[化政文化の時の教育と儒学について考えてみます &#160; &#160; ・当時の儒学と教育について &#160; &#160; 　・当時、幕府は儒学によって武士を教育することを考えていた 　　※しかし、１８世紀の後半に [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1236">化政文化の時の教育と儒学について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>化政文化の時の教育と儒学について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・当時の儒学と教育について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・当時、幕府は儒学によって武士を教育することを考えていた</p>
<p>　　※しかし、１８世紀の後半に古学派、折衷学派、考証学派などの学問の派閥が出てきた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→この状況で幕府は、寛政異学の禁という法律を作り、武士の教育のために</p>
<p>　　　朱子学を重視した</p>
<p>　　　※寛政の改革の時に、官立の昌平坂学問所という施設を作り、</p>
<p>　　　　そこで朱子学を教えていた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・様々な藩で、藩の武士の教育のために藩学（藩校）という学校を作った</p>
<p>　　※藩学は、最初は儒学だけを行っていたが、後半は洋学や国学も</p>
<p>　　　行うようになっていった</p>
<p>　　　→この時に、年齢や学力に合わせた教育を行うという、学級制が出てきた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・城下町から遠い土地に、藩の援助を受けて藩の武士や庶民を教育する施設を作った</p>
<p>　　＝その施設のことを、郷学（郷校）という</p>
<p>　　　※郷学の代表的なものに、岡山の藩主だった池田光政という人が建てた</p>
<p>　　　　閑谷学校というものがある</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・民間レベルでも武士や学者などが私塾を開かれて、儒学を始めとした様々な</p>
<p>　　学問の講義が行われた</p>
<p>　　※代表的な私塾に、大坂の懐徳堂という私塾がある</p>
<p>　　　</p>
<p>　　　→懐徳堂について</p>
<p>　　　　・１８世紀の初めに、大坂の町人達がお金を出し合って作られた</p>
<p>　　　　・寛政の改革の時に、中井竹山という人を学長にして、</p>
<p>　　　　　朱子学や陽明学などの講義を行った</p>
<p>　　　　・懐徳堂から、富永仲基や山片蟠桃という、変わった学者が出てきた</p>
<p>　　　　　※富永仲基と山片蟠桃は、合理主義という立場に立った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・その他の教育機関として、廣瀬淡窓という人の咸宜園や、</p>
<p>　　　吉田松陰という人の松下村塾などがある</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・寺小屋という、庶民の教育機関が大量に出てきた</p>
<p>　　→寺子屋では、読み、書き、そろばんなどの日常で使える教育と、</p>
<p>　　　道徳教育などを行った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※寺子屋には、女性の講師もいて、女性の教育も行われた</p>
<p>　　　→その時に、貝原益軒という人の作品をもとにして作られた「女大学」という</p>
<p>　　　　女性の心得を説明するものもあった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１８世紀の初めに、石田梅岩という人が心学という学問を作った</p>
<p>　　→石田梅岩は、以下のようなことを行った</p>
<p>　　　・儒教に仏教や神道を混ぜて、日常生活での倫理を解説した</p>
<p>　　　・「都鄙問答」という本を書き、商業と商人の大切さと、</p>
<p>　　　　徳目（倹約や正直などの徳の項目）を説明した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→心学は、弟子の手島堵庵や中沢道二という人達によって、全国に広められた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>　→庶民の教育は、出版が盛んになったことが後押しして、都市から農村にまで広がった</p>
<p>　　＝そのため、読みや書きなどの初等教育が、世界でもトップレベルになったと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・当時の儒学教育の様子を押さえる</p>
<p>・当時の民間教育の様子を押さえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p>
<p>&nbsp;</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1236">化政文化の時の教育と儒学について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://ahlaes.com/post/1236/feed</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
	<xhtml:link rel="alternate" media="handheld" type="text/html" href="http://ahlaes.com/post/1236" />
	</item>
		<item>
		<title>寛政の改革について　－松平定信の政治－</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1224</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1224#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 24 Oct 2013 11:04:07 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[パワフルくん]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[江戸時代後期]]></category>
		<category><![CDATA[七分積金]]></category>
		<category><![CDATA[勘定書御用達]]></category>
		<category><![CDATA[天明の打ちこわし]]></category>
		<category><![CDATA[寛政の改革]]></category>
		<category><![CDATA[寛政異学の禁]]></category>
		<category><![CDATA[尊号一件]]></category>
		<category><![CDATA[徳川家斉]]></category>
		<category><![CDATA[旧里帰農令]]></category>
		<category><![CDATA[松平定信]]></category>
		<category><![CDATA[藩政改革]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://ahlaes.com/?p=1224</guid>
		<description><![CDATA[寛政の改革について考えてみます &#160; &#160; ・寛政の改革までの流れについて &#160; &#160; 　・田沼意次がクビになった次の年だった１７８７年に、江戸や大坂など、 　　大きな都市で大量の打ちこわ [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1224">寛政の改革について　－松平定信の政治－</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>寛政の改革について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・寛政の改革までの流れについて</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・田沼意次がクビになった次の年だった１７８７年に、江戸や大坂など、</p>
<p>　　大きな都市で大量の打ちこわしが起きた</p>
<p>　　＝この打ちこわしを、天明の打ちこわしという</p>
<p>　　　※この時の打ちこわしの中でも、江戸の打ちこわしは幕府に衝撃が走るほど</p>
<p>　　　　すごいものだったと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→上のような時に、１１代将軍徳川家斉の補佐役として、</p>
<p>　　　白河の藩主だった松平定信という人が老中になった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※松平定信は、田安宗武の子どもで、８代将軍徳川吉宗の孫だった</p>
<p>　　　　また、松平定信は引退後に、「花月草紙」という随筆や、</p>
<p>　　　「宇下人言」という自伝などを書いた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・松平定信は、徳川吉宗の政治を理想として幕府の政治を行っていった</p>
<p>　　→そこで、田沼時代の政策を変えること、飢饉で危なくなった財政基盤の復旧、</p>
<p>　　　武士の風潮の整備、幕府の権力の復活などを行っていこうと考えた</p>
<p>　　　＝このように、松平定信による政治の改革を、寛政の改革という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>・寛政の改革の内容について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・飢饉でボロボロになった村を復活させるために、以下の２つのことを行った</p>
<p>　　・人口減少が激しい陸奥や北関東などで、百姓が他の国に出稼ぎに行くことを禁止した</p>
<p>　　・荒れた田畑を復活させるために、全国レベルで国のお金を貸し付けることを行った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・再び飢饉が来た場合を考えて、各地で社倉や義倉と呼ばれる倉庫を作らせて、</p>
<p>　　お米などの穀物を蓄えさせた</p>
<p>　　＝この制度を囲米という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・都市への政策として江戸では、両替商を中心とした豪商が幕府に呼ばれた</p>
<p>　　＝このような人達を勘定書御用達と言い、１０人で構成され、</p>
<p>　　　この１０人の力を使って改革を行おうとした</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・物価や米価を引き下げた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・都市でまともな職業に就いていない人に資金を提供して、その人達を農村に帰らせた</p>
<p>　　＝この法律を、旧里帰農令という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・治安対策の一つとして、石川島に人足寄場という施設を作り、宿がない浮浪人を</p>
<p>　　強制的に人足寄場に入れ、技術を身につけさせて、職業を持たせようとした</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・それぞれの町に、町の運営費の節約を命令させ、節約した分の７割を積み立てさせた</p>
<p>　　＝この積み立てを七分積金という</p>
<p>　　　→七分積金については、新しく作った江戸町会所という施設が管理した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→上のようにすることで、お米やお金を蓄えて、飢饉や災害などで</p>
<p>　　　生活が困難になった貧民を助ける体制を作った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・大名や旗本に節約を求め、金銭面で苦しむ大名や旗本を助けるために</p>
<p>　　棄捐令という法律を作った　</p>
<p>　　→その時に、大名や旗本が札差から借りたお金については帳消しにして、</p>
<p>　　　札差が大名や旗本に貸したお金については、返ってこないということで諦めてもらった</p>
<p>　　　※札差・・江戸にいた金融系の商人のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・松平定信が朱子学を推奨したため、１７９０年に湯島聖堂の学問所で、</p>
<p>　　朱子学以外の講義や研究を禁止した</p>
<p>　　＝このことを、寛政異学の禁という</p>
<p>　　　※湯島聖堂は１７９７年に官立になり、昌平坂学問所に名前が変わった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・儒学の講義の担当者として、柴野栗山、尾藤二洲、岡田寒泉を任命した</p>
<p>　　＝柴野栗山、尾藤二洲、岡田寒泉の三人を「寛政の三博士」という</p>
<p>　　　※岡田寒泉は後に代官になり、古賀精里という人が次に任命された</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・民間に対しては、出版統制令という法律を作って、政治への批判や風刺などを禁止させたり、</p>
<p>　　風俗についての考え方を新しくしたりした</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※出版統制令によって、どのようなことが起きたのか</p>
<p>　　　　</p>
<p>　　　　・林子平という人が書いた「三国通覧図説」や「海国兵談」という本が、</p>
<p>　　　　　幕府を批判しているとして抑えつけた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　　・黄表紙（風刺の強い絵物語）や洒落本（遊んでいる女性やお客の発言や行動を、</p>
<p>　　　　　会話を元に書いたもの）が風俗を乱すということで出版を禁止して、</p>
<p>　　　　　出版元を処罰した</p>
<p>　　　　　＝黄表紙作家の恋川春町、洒落本作家の山東京伝、出版元の蔦屋重三郎などが</p>
<p>　　　　　　抑えつけられた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・寛政の改革によって、社会はどうなったのか</p>
<p>　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・幕府の政治を引き締めて、幕府の権力を高めていくかと思われたが、</p>
<p>　　統制や節約の厳しさが原因で人々が反発してしまうことがあった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・朝廷で問題が発生し、尊号一件という出来事が起きた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※尊号一件について</p>
<p>　　　・１７８９年に、朝廷が光格天皇の実の父である閑院宮典仁親王という人に、</p>
<p>　　　　太政天皇の尊号を贈りたいということについて幕府に同意を求めた</p>
<p>　　　　→これに対して、幕府の松田定信が拒否した</p>
<p>　　　・そこで、武家伝奏などの公家側は、もう一度尊号を贈ることについて</p>
<p>　　　　幕府の許可を求めた</p>
<p>　　　　→これに対して、松平定信は「本来は武家伝奏は幕府側に立つべきだ」</p>
<p>　　　　　という考え方によって、公家を処分した</p>
<p>　　　　　＝この一連の事件を、尊号一件という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→尊号一件によって、幕府と朝廷との仲が悪くなってしまった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→この事件の対処の方法について、松平定信と１１代将軍徳川家斉が対立したため、</p>
<p>　　　松田定信が約６年で老中をクビになってしまった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→この動きによって、幕末に傾き始めたと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・様々な藩では、田畑がダメになったり、年貢の収入が減ったりしたことによって、</p>
<p>　　幕府と同じように財政危機を迎えていた</p>
<p>　　→そこで藩は、寛政期あたりから藩のトップが自分で指揮を取り、</p>
<p>　　　法律を徹底したり、領内での倹約や統制を強化したりして、</p>
<p>　　　財政難を抜け出すことで藩の権力を復興させようとした</p>
<p>　　　＝この一連の流れを、藩政改革という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→藩政改革で具体的なものに、特産物の生産の推奨、藩の専売制度の強化、</p>
<p>　　　藩校の設立による人材の育成などがある</p>
<p>　　　</p>
<p>　　→藩政改革で有名になった人に、秋田藩の佐竹義和、米沢藩の上杉治憲、</p>
<p>　　　熊本藩の細川重賢などの人がいる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・寛政の改革までの流れについて押さえる</p>
<p>・寛政の改革の内容について押さえる</p>
<p>・寛政の改革のその後と尊号一件について押さえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p>
<p>&nbsp;</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1224">寛政の改革について　－松平定信の政治－</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://ahlaes.com/post/1224/feed</wfw:commentRss>
		<slash:comments>1</slash:comments>
	<xhtml:link rel="alternate" media="handheld" type="text/html" href="http://ahlaes.com/post/1224" />
	</item>
	</channel>
</rss>
