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	<title>アラエス &#187; 平清盛</title>
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	<item>
		<title>源平の争乱・源平合戦について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1141</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1141#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 21 Oct 2013 17:32:38 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[康太]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[平安時代]]></category>
		<category><![CDATA[一ノ谷の戦い]]></category>
		<category><![CDATA[壇ノ浦の戦い]]></category>
		<category><![CDATA[大輪田泊]]></category>
		<category><![CDATA[安徳天皇]]></category>
		<category><![CDATA[平清盛]]></category>
		<category><![CDATA[治承・寿永の乱]]></category>
		<category><![CDATA[源平の争乱]]></category>
		<category><![CDATA[源平合戦]]></category>
		<category><![CDATA[福原京]]></category>
		<category><![CDATA[養和の飢饉]]></category>

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		<description><![CDATA[源平の争乱について考えてみます &#160; &#160; ・源平の争乱について &#160; 　・鹿ケ谷の陰謀の後、平清盛は後白河法皇を鳥羽殿という場所に閉じ込めて、 　　１１８０年に安徳天皇という人を即位させた &#038;n [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1141">源平の争乱・源平合戦について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>源平の争乱について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・源平の争乱について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・鹿ケ谷の陰謀の後、平清盛は後白河法皇を鳥羽殿という場所に閉じ込めて、</p>
<p>　　１１８０年に安徳天皇という人を即位させた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→この動きに対して、地方の武士団、中央の貴族や大寺院などの一部で、</p>
<p>　　　平氏が独裁的な政治を行っていると考えて、不満を持つ人が出てきた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→そこで、後白河法皇の皇子である以仁王という人と、</p>
<p>　　　畿内にいた源氏の源頼政という人が</p>
<p>　　　平氏を倒すことを考えた</p>
<p>　　　※そのため、挙兵を呼びかける令旨（王の命令）が様々な国の武士に伝えられた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→令旨によって、以下のようなことが起きた</p>
<p>　　　・興福寺や園城寺（三井寺）などの僧兵が動いた</p>
<p>　　　・伊豆に流されていた源頼朝や信濃にいた源義仲という人達などを始めとして、</p>
<p>　　　　様々な場所で武士団が挙兵した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→この動きによって、以仁王と源頼政を中心とした平氏を倒す動きが</p>
<p>　　　全国レベルにまで広がって最終的に５年間の争乱が続いた</p>
<p>　　　＝この争乱のことを、治承・寿永の乱と言う</p>
<p>　　　　（別名を源平合戦と言われることもある）</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・上のような動きがあり、平氏は都を福原京（現在の神戸市）に移した</p>
<p>　　※大輪田泊がある、などの理由で福原京に移したが、貴族などの反対があって、</p>
<p>　　　半年で京都に戻った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→京都に戻して、畿内の支配を強化することで、治承・寿永の乱などの動きに</p>
<p>　　　対抗しようとした</p>
<p>　　　※しかし、平清盛が突然死んでしまったこと、</p>
<p>　　　　養和の飢饉という飢饉が畿内を中心とした西の方で起きてしまったこと、</p>
<p>　　　　などが影響して平氏の基盤が弱くなった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→そのため、１１８３年に北陸で平氏が源義仲に負けて、</p>
<p>　　　平氏が西側の地方に逃げた（都落ちをした）</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→その後、源頼朝の命令を源範頼と源義経の軍が受けて、</p>
<p>　　　源義仲を倒すという出来事が起きた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→結果的に、摂津での一ノ谷の戦い、讃岐での屋島の戦いを行い、</p>
<p>　　　最終的に１１８５年の、長門での壇ノ浦の戦いによって、平氏を完全に倒した</p>
<p>　　　※一ノ谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いなどをまとめて、</p>
<p>　　　　治承・寿永の乱と言う</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・治承・寿永の乱に大きな影響を与えたのは、地方の武士団だったと言われている</p>
<p>　　※武士団は、国司や荘園領主に対抗することで土地の支配権の強化や拡大をしたかったので</p>
<p>　　　その目標が実現するための政治の仕組みが必要だったから、</p>
<p>　　　影響を与えるほどの活躍をしたと考えられている</p>
<p>　　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・源平の争乱の流れと内容を押さえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1141">源平の争乱・源平合戦について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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		<item>
		<title>平氏政権について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1138</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1138#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 21 Oct 2013 17:22:16 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[康太]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[平安時代]]></category>
		<category><![CDATA[地頭]]></category>
		<category><![CDATA[太政大臣]]></category>
		<category><![CDATA[平氏]]></category>
		<category><![CDATA[平清盛]]></category>
		<category><![CDATA[建礼門院]]></category>
		<category><![CDATA[後白河法皇]]></category>
		<category><![CDATA[日宋貿易]]></category>
		<category><![CDATA[蓮華王院]]></category>
		<category><![CDATA[鹿ケ谷の陰謀]]></category>

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		<description><![CDATA[平氏政権について考えてみます &#160; &#160; ・平氏政権について &#160; 　・平治の乱の後に、平清盛が後白河上皇を武力で支えると同時に蓮華王院という 　　施設を作るなどの奉仕をした 　　＝この結果、平清 [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1138">平氏政権について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>平氏政権について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・平氏政権について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・平治の乱の後に、平清盛が後白河上皇を武力で支えると同時に蓮華王院という</p>
<p>　　施設を作るなどの奉仕をした</p>
<p>　　＝この結果、平清盛が太政大臣になった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※さらに、平清盛の子どもである、平重盛などの一族も</p>
<p>　　　　どんどん高い官職や高い位になった</p>
<p>　　　　→そのため、平氏の威力に並ぶような力を持つ人がいなくなった</p>
<p>　　　　　＝結果的に平氏が全盛期を迎えることになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　　　　※平氏が全盛期を迎えた背景には、各地で武士団が成長したことが</p>
<p>　　　　　　　関係していると言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・平清盛は、武士団の一部を地頭に任命して、畿内から瀬戸内海、九州までのような</p>
<p>　　西国の範囲の武士を家人にすることができるようになった</p>
<p>　　※・地頭・・荘園や公領の現地の支配者のこと</p>
<p>　　　・家人・・武士の社会で、上の人に従う人のこと</p>
<p>　　　　　　　　※鎌倉時代は御家人と言われた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・平清盛は、娘である徳子（建礼門院）を高倉天皇の中宮にした</p>
<p>　　→この動きによって、高倉天皇の子どもである安徳天皇が即位したときに、</p>
<p>　　　平清盛が外戚になった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・平氏の経済的な基盤は、全盛期は日本全国の約半分の知行国や約５００の荘園だった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・平氏政権は、摂関家にかなり似ていたため、武士にも関わらず貴族のような性格が強かった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・平氏は、平忠盛になってから、日宋貿易を積極的に行うようになった</p>
<p>　　→・１１世紀後半から、日本と高麗や宋との間で船の往復が活発になった</p>
<p>　　　　※１２世紀には、北方の女真人という人達が作った金という国によって、</p>
<p>　　　　　宋が南宋になった</p>
<p>　　　・南宋になってからは、より一層積極的に貿易を行うようになった</p>
<p>　　　</p>
<p>　　→・貿易の活発化に合わせて、平清盛は摂津の大輪田泊（現在の神戸市）を修築したり、</p>
<p>　　　　瀬戸内海の航路の安全を維持したりした</p>
<p>　　　　＝宋の商人を畿内へ招待して貿易をより活発したいと考えていた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※・日宋貿易の時は、日本は宋へ向けて、金、硫黄、木材、水銀、米、扇、</p>
<p>　　　　漆器、刀剣などを輸出した</p>
<p>　　　・宋は日本へ向けて、宋銭、陶磁器、香料、書籍、薬品などを輸出した</p>
<p>　　　　※特に、香料と薬品は、東南アジア産のものだったと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→平清盛の政策の結果、日宋貿易によって日本に入ってきた、</p>
<p>　　　宋銭、書籍、珍しい宝などは日本の経済や文化に</p>
<p>　　　大きな影響を与えたと言われている</p>
<p>　　　※特に、貿易の利益は平氏政権の重要な経済の基盤になったと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・平氏は、官職を独占しようと考えたため、支配を広げていった</p>
<p>　　→平氏の支配の時に、排除された昔の有力な人達から、強い反発が出るようになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※特に、後白河法皇の近臣と平氏との対立が深かったと言われている</p>
<p>　　　　→そこで、１１７７年に藤原成親や僧の俊寛と呼ばれる人達が</p>
<p>　　　　　京都郊外の鹿ケ谷という場所で平氏を倒すことを目指したものの、</p>
<p>　　　　　平氏に倒されて失敗に終わる、という事件が起きた</p>
<p>　　　　　＝この事件のことを鹿ケ谷の陰謀と言う</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→鹿ケ谷の陰謀の後、平清盛は以下のような行動をとった</p>
<p>　　　・１１７９年に後白河法皇を鳥羽殿という場所に閉じ込めた</p>
<p>　　　・関白以下の多くの貴族の官職を平清盛が奪って、処罰した</p>
<p>　　　　→この２つの強引な手段によって、国家の権力をほとんど自分のものにして、</p>
<p>　　　　　政治をコントロールした</p>
<p>　　　　　</p>
<p>　　※上のような平清盛の行動は、平清盛が権力の独占を成功しかけたが、</p>
<p>　　　この権力の独占への行動は院、貴族、寺社、源氏など、平氏に反対する勢力が</p>
<p>　　　結束することを促す結果になった</p>
<p>　　　＝結果的に平氏が終了するのをはやめてしまうことになったと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・平氏政権の動きを押さえる</p>
<p>・日宋貿易を押さえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1138">平氏政権について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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		<item>
		<title>保元・平治の乱について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1137</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1137#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 21 Oct 2013 17:15:08 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[康太]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[平安時代]]></category>
		<category><![CDATA[伊勢平氏]]></category>
		<category><![CDATA[保元の乱]]></category>
		<category><![CDATA[崇徳上皇]]></category>
		<category><![CDATA[平正盛]]></category>
		<category><![CDATA[平治の乱]]></category>
		<category><![CDATA[平清盛]]></category>
		<category><![CDATA[後白河上皇]]></category>
		<category><![CDATA[源義朝]]></category>
		<category><![CDATA[源頼朝]]></category>
		<category><![CDATA[鳥羽法皇]]></category>

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		<description><![CDATA[保元・平治の乱について考えてみます &#160; &#160; ・保元・平治の乱までの流れについて &#160; &#160; 　・源氏が、東国で勢力を拡大していった 　　→すると、東国武士団の中から、源義家に土地を寄進 [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1137">保元・平治の乱について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>保元・平治の乱について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・保元・平治の乱までの流れについて</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・源氏が、東国で勢力を拡大していった</p>
<p>　　→すると、東国武士団の中から、源義家に土地を寄進して保護を求める人が増えてきた</p>
<p>　　　＝この動きに焦って、朝廷が急いで寄進を禁止するようになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・義家の後に、源氏一族で内紛が起きたため、源氏の勢力が少し衰えた</p>
<p>　　→そこで、伊勢平氏という氏族が、院との関係を結んだため、</p>
<p>　　　源氏に代わって発展していった</p>
<p>　　　※伊勢平氏・・桓武平氏の中で、伊勢や伊賀を中心にしていた氏族のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　※伊勢平氏の中でも、平正盛、平忠盛という人が活躍した</p>
<p>　　→平正盛、平忠盛が行った例</p>
<p>　　　・源義家の子どもで、出雲で反乱を起こした源義親という人を倒した</p>
<p>　　　・平正盛の子どもの平忠盛という人は、瀬戸内海の海賊を落ち着かせたことで、</p>
<p>　　　　鳥羽上皇に信頼されるようになった</p>
<p>　　　・平忠盛は、武士として、院近臣として大切に用いられるようになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　→以上のような流れを受けて、平氏の力をさらに強めた人が、</p>
<p>　　平忠盛の子どもの平清盛という人だった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１１５６年に、鳥羽法皇が死んでしまった後に、皇位継承について法皇側と</p>
<p>　　崇徳上皇という人が対立した</p>
<p>　　</p>
<p>　　・崇徳上皇側</p>
<p>　　　→・左大臣の藤原頼長と関係を持って、源為義や平忠正などの武士を集めた</p>
<p>　　　　　※藤原頼長は、兄で関白の藤原忠通と、摂関家の継承について争っていた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・法皇側</p>
<p>　　　→・鳥羽法皇の立場を引き継いだ後白河天皇が、藤原忠通や近臣の藤原通憲の意見によって、</p>
<p>　　　　　平清盛や源義朝などの武士を集めた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→結果は、法皇側が崇徳天皇側を攻撃して倒し、法皇側が勝利したため、</p>
<p>　　　崇徳天皇は讃岐に流された</p>
<p>　　　＝この時の争いのことを、保元の乱と言う</p>
<p>　　</p>
<p>　　→この結果によって、後白河上皇が院政を始めた</p>
<p>　</p>
<p>　</p>
<p>　・保元の乱の後、後白河上皇の近臣達が対立するようになった</p>
<p>　　→そこで、１１５９年に平清盛と関係を持っている藤原通憲に反感を抱いた</p>
<p>　　　近臣の一人である藤原信頼という人が、源義朝と関係を結んで兵を出した</p>
<p>　　　＝平清盛・藤原通憲と藤原信頼・源義朝の争いという関係になった</p>
<p>　　</p>
<p>　　→対立の流れ</p>
<p>　　　・最初に藤原通憲が自殺をした</p>
<p>　　　・その後、平清盛の側が不利なったかと思われた</p>
<p>　　　・しかし、平清盛の武力が強すぎたために、平清盛によって</p>
<p>　　　　藤原信頼や源義朝が倒された</p>
<p>　　　・そのため、源義朝の子どもである源頼朝が伊豆に流されることになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　＝この争いのことを、平治の乱と言う</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→２つの乱によって、以下のようなことが明らかになった</p>
<p>　　　・争いは武士の実力で解決されることが明らかになった</p>
<p>　　　・平清盛の地位と権力が、急速に高まっていった　　etc</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・保元の乱と平治の乱の流れとそれまでの動きを押さえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1137">保元・平治の乱について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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