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	<title>アラエス &#187; 朝廷</title>
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	<description>－全ての人に学びの空間を－</description>
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	<item>
		<title>儒学の受容と展開について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1629</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1629#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 14 Nov 2013 19:25:17 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[ゴンショウ]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本思想前期　－古代・中世・近世・幕末－]]></category>
		<category><![CDATA[上下定分の理]]></category>
		<category><![CDATA[儒学]]></category>
		<category><![CDATA[天人合一]]></category>
		<category><![CDATA[存心持敬]]></category>
		<category><![CDATA[新井白石]]></category>
		<category><![CDATA[朝廷]]></category>
		<category><![CDATA[朱子学]]></category>
		<category><![CDATA[格物致知]]></category>
		<category><![CDATA[藤原惺窩]]></category>
		<category><![CDATA[遣隋使]]></category>

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		<description><![CDATA[儒学について考えます &#160; &#160; &#160; ・儒学の受容（儒学は、日本にどのように取り入れられたのか） 　 　・儒学は、７世紀頃に朝廷が遣隋使（のちに遣唐使）を中国に派遣したことで、 　　日本に入って [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1629">儒学の受容と展開について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>儒学について考えます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・儒学の受容（儒学は、日本にどのように取り入れられたのか）</p>
<p>　</p>
<p>　・儒学は、７世紀頃に朝廷が遣隋使（のちに遣唐使）を中国に派遣したことで、</p>
<p>　　日本に入ってきた</p>
<p>　　→これにより、官人（現在で言う役人）によって政治が行われるようになったり、</p>
<p>　　　律令が制定されたりした</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・官人の育成には明教道が重要とされ、明教道以外には明法道や紀伝道などがあった</p>
<p>　　※明教道：「礼記」や「易経」などの儒学の経典を学ぶ学問のこと</p>
<p>　　　明法道：律令（法律や政治経済についての規定のこと）や</p>
<p>　　　　　　　格式（礼儀や作法のこと）を学ぶ学問のこと</p>
<p>　　　紀伝道：「史記」や「文選」を学ぶ学問のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　→儒学は、政治に関係する規定の手本として理解され、受け入れられていった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・朱子学の思想、考え方について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・朱子学は儒学の一部で、日本では特に江戸時代に朱子学が盛んになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・当時は、朱子学が考える理（物事の根本の正しい考え）は天という場所にあると</p>
<p>　　考えられており、天にある理が理想だから求めていこうと考えていた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・当時の朱子学に関連した人</p>
<p>　　・藤原惺窩：元々は禅宗の僧だったが、一般の人に戻り、儒学者となった。</p>
<p>　　　　　　　　江戸時代の儒学の生みの親</p>
<p>　　・林羅山：禅宗の僧となることを拒んで、朱子学者として、幕府に仕えた</p>
<p>　　・山崎闇斎：塾を開いて、朱子学を説明し、教えていった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・林羅山や山崎闇斎の朱子学の考え方</p>
<p>　　</p>
<p>　　・政治を行う人や君子は、自分が控え目な行動をすること、</p>
<p>　　　自分の行動を慎むこと（＝敬）によって、欲望や情念（抑えがたい感情）を捨てて、</p>
<p>　　　人間に元々ある本来の心を維持するべきだと考えた</p>
<p>　　　＝これを存心持敬と言う</p>
<p>　</p>
<p>　　・本来の心を維持することで、天と通い合うから、</p>
<p>　　　天と通い合い、天と自分の本来の心を合一しなければいけないと考えた</p>
<p>　　　＝この考え方を天人合一と言う</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※天人合一とは・・</p>
<p>　　　　→天より下の世界（＝世俗世界、人々が生活している世界）にある道理（＝天理）を</p>
<p>　　　　　理解して、実際に自分自身で理を表現すること</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※天理は、四季や時間の経過など、自然現象などの道理だけでなく、</p>
<p>　　　　上下定分の理も含まれると考えた</p>
<p>　　　　</p>
<p>　　　※上下定分の理とは・・</p>
<p>　　　　→王様と家来のような上下の関係や身分秩序などは、</p>
<p>　　　　　道理が表現されているという考え方のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・政治を行う人（為政者）は、全ての道理を明らかにして、</p>
<p>　　　物事を全て知り尽くしていないといけないと考えた</p>
<p>　　　＝このような考え方を格物致知と言う</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　※儒学や朱子学を勉強した人の中で活躍した人達について</p>
<p>　　・貝原益軒－薬草を中心に植物の観察と分類を行って、</p>
<p>　　　　　　　　「大和本草」という本を書いた</p>
<p>　　・新井白石－朱子学の立場からキリスト教の教説に対する批判を書いた</p>
<p>　　　　　　　　「西洋紀聞」という本を書いた</p>
<p>　　・雨森芳洲－「交鱗提醒」というものを書いて、朝鮮との外交を</p>
<p>　　　　　　　　どうするべきかを考えた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・儒学は、遣隋使（後の遣唐使）によって入ってきた</p>
<p>・明教道が重要とされ、明教道以外には明法道や紀伝道などがあった</p>
<p>・儒学は、政治に関係する規定の手本として理解され、受け入れられていった</p>
<p>・当時の朱子学は天にある理を理想とした</p>
<p>・当時の朱子学に関連する人に藤原惺窩、林羅山、山崎闇斎などがいる</p>
<p>・羅山や闇斎は、存心持敬を維持した上での天人合一を重視した</p>
<p>・天理の中には、上下定分の理も含まれていると考えた</p>
<p>・格物致知が大切だとした</p>
<p>・その他に、貝原益軒、新井白石、雨森芳洲がいる</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1629">儒学の受容と展開について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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		<item>
		<title>江戸時代の朝廷について　－朝廷の状況と紫衣事件－</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1198</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1198#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 23 Oct 2013 21:05:52 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[パワフルくん]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[江戸時代前期]]></category>
		<category><![CDATA[京都所司代]]></category>
		<category><![CDATA[後水尾天皇]]></category>
		<category><![CDATA[摂家]]></category>
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		<category><![CDATA[朝廷]]></category>
		<category><![CDATA[東福門院]]></category>
		<category><![CDATA[武家伝奏]]></category>
		<category><![CDATA[禁中並公家諸法度]]></category>
		<category><![CDATA[禁裏御領]]></category>
		<category><![CDATA[紫衣事件]]></category>

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		<description><![CDATA[江戸時代の朝廷について考えてみます &#160; &#160; ・当時の朝廷について &#160; &#160; 　・徳川家康は、１６１１年に後水尾天皇という人を支持して、高い地位につかせようとした 　　＝これは、天皇の [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1198">江戸時代の朝廷について　－朝廷の状況と紫衣事件－</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>江戸時代の朝廷について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・当時の朝廷について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・徳川家康は、１６１１年に後水尾天皇という人を支持して、高い地位につかせようとした</p>
<p>　　＝これは、天皇の位に関しても幕府の意見を通すことが出来るようになった事を</p>
<p>　　　示していると言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・徳川家康は、１６１５年に禁中並公家諸法度という法律を作った</p>
<p>　　※禁中並公家諸法度・・朝廷に関するルールや基準を示した法律のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・徳川幕府は、京都所司代に朝廷を監視させた</p>
<p>　　→これと同時に、摂家（関白と左大臣、右大臣、内大臣の三公）に</p>
<p>　　　朝廷を管理する権利を渡した</p>
<p>　　　＝幕府は、こうすることによって武家伝奏を使って、調停をコントロールした</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※武家伝奏について</p>
<p>　　　　・武家伝奏とは・・江戸時代の朝廷にあった役職のことで</p>
<p>　　　　　　　　　　　　　朝廷に幕府側の命令を伝えた</p>
<p>　　　　・武家伝奏は、公家から２人選ばれ、幕府から給料が与えられた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・徳川幕府は、禁裏御領（天皇領）、公家領、門跡領という３つの領を必要最小限にした</p>
<p>　　※この時に、天皇の行幸（天皇の外出）が禁止になり、</p>
<p>　　　公家が花見などをする場合は幕府の許可が必要になった</p>
<p>　</p>
<p>　</p>
<p>　→以上のように、天皇と公家の行動をコントロールすることで、</p>
<p>　　天皇と朝廷が自分で権力を使ったり、他の大名に利用されないような体制を作った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※１６２０年に、徳川秀忠の娘だった和子（東福門院）という人を</p>
<p>　　　　後水尾天皇のところに入れることをきっかけに朝廷に</p>
<p>　　　　残っていた権利（官位制度、改暦、改元）を朝廷が使う場合も</p>
<p>　　　　幕府の権利が必要な状態にした</p>
<p>　　　　＝こうすることで、朝廷の残りの権利を、幕府が全国を支配するための道具にした</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※改元・・年号を新しくすること</p>
<p>　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・紫衣事件と朝廷について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１６２９年に、紫衣事件という出来事が起きた</p>
<p>　</p>
<p>　　※紫衣事件とは</p>
<p>　　　・紫衣の寺の住職についての許可のルールが、禁中並公家諸法度で</p>
<p>　　　　決められていたものの、１６２７年に幕府の許可が無いのに、</p>
<p>　　　　後水尾天皇が紫衣の着用を勝手に認めたため、徳川幕府ではこれを問題だとした</p>
<p>　　　　→そこで、大徳寺の沢庵と呼ばれる人などが、徳川幕府が問題視することは変だとして、</p>
<p>　　　　　抗議をしたため、幕府が沢庵などを処罰した</p>
<p>　　　　　＝この出来事を、紫衣事件という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※紫衣事件は、天皇よりも幕府のほうが権力が強かったことを示していると言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→後水尾天皇は体調が悪かったが、紫衣事件をきっかけに、</p>
<p>　　　幕府の同意がないままいきなり次の天皇に位を譲った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※徳川幕府は、後水尾天皇の次の天皇が、徳川秀忠の孫の明正天皇という人だったので</p>
<p>　　　位を譲ることを認めた</p>
<p>　　　→その時、摂家と武家伝奏に、朝廷を厳しく統制するように命令した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント<br />・当時の朝廷と紫衣事件を押さえる</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1198">江戸時代の朝廷について　－朝廷の状況と紫衣事件－</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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		<item>
		<title>幕府と朝廷について　－それぞれの動きとお互いの関係－</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1144</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1144#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 21 Oct 2013 17:58:31 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[マミ]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[鎌倉時代]]></category>
		<category><![CDATA[京都大番役]]></category>
		<category><![CDATA[太田文]]></category>
		<category><![CDATA[封建制度]]></category>
		<category><![CDATA[幕府]]></category>
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		<category><![CDATA[軍役]]></category>

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		<description><![CDATA[鎌倉時代の幕府と朝廷について考えてみます &#160; &#160; ・幕府の支配について &#160; 　・幕府の支配の基本になったのは、将軍が上の立場に立ち、御家人が下の立場に立つ、 　　という主従関係だった &#038;nb [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1144">幕府と朝廷について　－それぞれの動きとお互いの関係－</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>鎌倉時代の幕府と朝廷について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・幕府の支配について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・幕府の支配の基本になったのは、将軍が上の立場に立ち、御家人が下の立場に立つ、</p>
<p>　　という主従関係だった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→お互いの立場による関係について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　・頼朝（将軍側）は、本領安堵や新恩給与などの御恩を提供した</p>
<p>　　　　※・本領安堵・・御家人を地頭に任命することで、昔からの土地の支配を保障する</p>
<p>　　　　　・新恩給与・・新しい所領（土地）をあげる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　・御家人側は、戦いの時には軍役を、普段の時には京都大番役や鎌倉番役などを</p>
<p>　　　　行うことで奉公した</p>
<p>　　　　※・軍役・・軍人としてつとめること</p>
<p>　　　　　・京都大番役・・天皇や院の御所という場所を警護させる役のこと</p>
<p>　　　　　・鎌倉番役・・東国の御家人に幕府を警護させる役のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　</p>
<p>　→以上のような関係があり、東国武士団も御家人として幕府に従う構図になったため、</p>
<p>　　御家人の中で地頭に任命され、土地を支配することを将軍に保障してもらう</p>
<p>　　というスタイルが出てきた</p>
<p>　　※御家人の中でも西国の御家人の多くは、地頭に任命されるのではなく、</p>
<p>　　　守護を通じて御家人に登録されて幕府の保護を受ける、というスタイルだった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　→そのため、東国は実質的に幕府の支配する地域になり、行政や裁判の権利も</p>
<p>　　幕府が持つようになった</p>
<p>　　※東国以外も、国衙の任務は守護を通じて幕府がコントロールするようになった</p>
<p>　　　→当時、幕府が国衙に太田文を作らせていて、そのことが幕府の支配力を</p>
<p>　　　　表していると言われている</p>
<p>　　　　※太田文・・一つの国の中の荘園や公領ごとの田地の面積、荘園領主や地頭の名前を</p>
<p>　　　　　　　　　　調査した文書のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　＝以上のように、将軍側が土地を与えることで、将軍と御家人が御恩と奉公の関係になる</p>
<p>　　制度を封建制度と言う</p>
<p>　　※鎌倉幕府は、封建制度にもとづいて成立した最初の政権だと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・当時の朝廷について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・当時の朝廷は、京都の朝廷や貴族、大寺社などを中心とした荘園領主の力が</p>
<p>　　まだ強く残っていた</p>
<p>　　→そのため、政治に関しても経済に関しても、幕府と朝廷の両方が支配する</p>
<p>　　　というスタイルだった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・朝廷は以下のようなことを行っていた</p>
<p>　　→・国司を任命して、全国の一般的な行政をまとめてコントロールしていた</p>
<p>　　　・貴族や大寺社は、国司や荘園領主として土地からの利益を多くをまだ得ていた</p>
<p>　　　　※その中には、幕府に従わない武士も多くいた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>　※源頼朝は将軍だったため、知行国（関東知行国）や平家没官領を含めた</p>
<p>　　大量の荘園（関東御領）を持っていて、関東御領が幕府の経済的基盤の一つにもなった</p>
<p>　　・知行国・・国司以外の人に任され、そこでの税金がそのまま知行国を管理する人に入る</p>
<p>　　　　　　　　という仕組みの国のこと</p>
<p>　　・平家没官領・・平家が倒された時に、朝廷（後白河法皇）が平家から奪った土地のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・幕府と朝廷との関係について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・幕府と朝廷との関係は、新制で決められていた</p>
<p>　　※新制・・律令や格式の後に出された、朝廷が作った法律や宣旨のこと</p>
<p>　　　　　　　　→新制は、鎌倉時代以降は段々と幕府も出すようになっていった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・朝廷と幕府のトップの人は同じような性格だった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・幕府は、守護や地頭に命令して全国の治安の維持を行い、年貢を納めない地頭を罰した</p>
<p>　　＝朝廷が支配する荘園や公領を維持することを助けた一面が幕府にあったと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・幕府は東国以外の様々な地方も支配したかったため、守護・地頭と</p>
<p>　　国司・荘園領主との間で紛争が増えた</p>
<p>　　→結果的に荘官が地頭に変わっていったので、幕府による地方の支配力が強くなっていった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・幕府の動きを押さえる</p>
<p>・朝廷の動きを押さえる</p>
<p>・幕府と朝廷とのそれぞれの関係を押さえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1144">幕府と朝廷について　－それぞれの動きとお互いの関係－</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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