江戸時代の朝廷について -朝廷の状況と紫衣事件-
江戸時代の朝廷について考えてみます
・当時の朝廷について
・徳川家康は、1611年に後水尾天皇という人を支持して、高い地位につかせようとした
=これは、天皇の位に関しても幕府の意見を通すことが出来るようになった事を
示していると言われている
・徳川家康は、1615年に禁中並公家諸法度という法律を作った
※禁中並公家諸法度・・朝廷に関するルールや基準を示した法律のこと
・徳川幕府は、京都所司代に朝廷を監視させた
→これと同時に、摂家(関白と左大臣、右大臣、内大臣の三公)に
朝廷を管理する権利を渡した
=幕府は、こうすることによって武家伝奏を使って、調停をコントロールした
※武家伝奏について
・武家伝奏とは・・江戸時代の朝廷にあった役職のことで
朝廷に幕府側の命令を伝えた
・武家伝奏は、公家から2人選ばれ、幕府から給料が与えられた
・徳川幕府は、禁裏御領(天皇領)、公家領、門跡領という3つの領を必要最小限にした
※この時に、天皇の行幸(天皇の外出)が禁止になり、
公家が花見などをする場合は幕府の許可が必要になった
→以上のように、天皇と公家の行動をコントロールすることで、
天皇と朝廷が自分で権力を使ったり、他の大名に利用されないような体制を作った
※1620年に、徳川秀忠の娘だった和子(東福門院)という人を
後水尾天皇のところに入れることをきっかけに朝廷に
残っていた権利(官位制度、改暦、改元)を朝廷が使う場合も
幕府の権利が必要な状態にした
=こうすることで、朝廷の残りの権利を、幕府が全国を支配するための道具にした
※改元・・年号を新しくすること
・紫衣事件と朝廷について
・1629年に、紫衣事件という出来事が起きた
※紫衣事件とは
・紫衣の寺の住職についての許可のルールが、禁中並公家諸法度で
決められていたものの、1627年に幕府の許可が無いのに、
後水尾天皇が紫衣の着用を勝手に認めたため、徳川幕府ではこれを問題だとした
→そこで、大徳寺の沢庵と呼ばれる人などが、徳川幕府が問題視することは変だとして、
抗議をしたため、幕府が沢庵などを処罰した
=この出来事を、紫衣事件という
※紫衣事件は、天皇よりも幕府のほうが権力が強かったことを示していると言われている
→後水尾天皇は体調が悪かったが、紫衣事件をきっかけに、
幕府の同意がないままいきなり次の天皇に位を譲った
※徳川幕府は、後水尾天皇の次の天皇が、徳川秀忠の孫の明正天皇という人だったので
位を譲ることを認めた
→その時、摂家と武家伝奏に、朝廷を厳しく統制するように命令した
ポイント
・当時の朝廷と紫衣事件を押さえる
このあたりが今回のポイントです