寛永期の文化について
寛永期の文化について考えてみます
・寛永期の文化について
※江戸時代初期は桃山文化だったが、寛永期に入るあたりのころに、
新しい文化が見られるようになった
・当時の学問について
・室町時代に五山の禅僧が勉強していた朱子学を中心にして、
儒学という学問が盛んになった
※朱子学は、主従関係や親子の礼儀などを重視する学問だったため、
幕府にも推奨された
・藤原惺窩という人は、還俗(一度出家した人が戻ってくること)して、
朱子学を広めたり教えたりすることを行っていた
・藤原惺窩の弟子の林羅山という人は、徳川家康に使われた
→そのため、林羅山の子孫(林家という)は儒者として幕府に仕えて、
教育と学問を担当した
・当時の建築について
・霊廟建築という建築が流行した
※代表的な建物に、徳川家康を祀った日光東照宮がある
・神社の建築には、権現造が使われた
・黄檗宗の禅寺には、中国のスタイルが伝えられた
※代表的な寺に、長崎の崇福寺や宇治の万福寺などがある
→霊廟建築や権現造には、桃山文化の影響を受けた豪華な装飾と彫刻があると
言われている
・数寄屋造という様式が出てきた
※数寄屋造・・書院造に草庵風の茶室を取り入れた様式のこと
→代表的なものに、京都の桂離宮の書院がある
・当時の絵画について
・狩野派から狩野探幽という人が出てきて、幕府の御用絵師(幕府から一定の報酬を得て
絵画を担当した絵師のこと)になった
※しかし、狩野派の子孫は様式を発展させるわけではなく、同じ様式を繰り返すだけで
止まってしまった
・京都で俵屋宗達という人が出てきた
→俵屋宗達は、土佐派の画法をベースにして、装飾画で新しい様式を作り出した
※俵屋宗達の新しい様式は、元禄の時の琳派のベースになったと言われている
・京都の町衆だった本阿弥光悦という人が出てきた
→本阿弥光悦は、書道、蒔絵、楽焼の陶芸などで優れた作品を作ったと言われている
・当時の絵付について
・文禄・慶長の役の時に、大名たちが朝鮮人陶工を連れて帰ってきた
→その朝鮮人陶工が、登窯や上絵付と呼ばれる技術を日本に伝えた
※登窯や上絵付けの技術が伝えられたことで、九州地方と中国地方で
陶磁器が作られるようになった
→代表的な陶磁器に、有田焼(鍋島氏)、薩摩焼(島津氏)、高取焼(黒田氏)、
萩焼(毛利氏)、平戸焼(松浦氏)、などがある
※陶磁器の中でも、有田では磁器というものが作られ、酒井田柿右衛門という人が
赤絵という技術を作った
・赤絵・・赤をベースにして、多くの絵具を使い、様々な彩色をする
上絵付の一つのこと
・当時の文芸について
・教訓や道徳を中心とした仮名草子というものが出てきた
・連歌から俳諧が独立した
※俳諧では、京都の貞徳という人の貞門俳諧という俳諧が流行った
→文芸の面では、庶民の文化の基礎が寛永期に作られたと言われている
ポイント
・当時の学問について押さえる
・当時の建築について押さえる
・当時の絵画について押さえる
・当時の絵付について押さえる
・当時の文芸について押さえる
このあたりが今回のポイントです