寛永期の文化について

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投稿者:       投稿日時:2013/10/24 17:12      
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寛永期の文化について考えてみます

 

 

・寛永期の文化について

 

 ※江戸時代初期は桃山文化だったが、寛永期に入るあたりのころに、

  新しい文化が見られるようになった

 

 

 

 ・当時の学問について

 

  ・室町時代に五山の禅僧が勉強していた朱子学を中心にして、

   儒学という学問が盛んになった

   ※朱子学は、主従関係や親子の礼儀などを重視する学問だったため、

    幕府にも推奨された

 

  ・藤原惺窩という人は、還俗(一度出家した人が戻ってくること)して、

   朱子学を広めたり教えたりすることを行っていた

 

  ・藤原惺窩の弟子の林羅山という人は、徳川家康に使われた

   →そのため、林羅山の子孫(林家という)は儒者として幕府に仕えて、

    教育と学問を担当した

 

 

 

 ・当時の建築について

 

  ・霊廟建築という建築が流行した

   ※代表的な建物に、徳川家康を祀った日光東照宮がある

 

  ・神社の建築には、権現造が使われた

 

  ・黄檗宗の禅寺には、中国のスタイルが伝えられた

   ※代表的な寺に、長崎の崇福寺や宇治の万福寺などがある

 

   →霊廟建築や権現造には、桃山文化の影響を受けた豪華な装飾と彫刻があると

    言われている

 

  ・数寄屋造という様式が出てきた 

   ※数寄屋造・・書院造に草庵風の茶室を取り入れた様式のこと

    →代表的なものに、京都の桂離宮の書院がある

 

 

 

 ・当時の絵画について

 

  ・狩野派から狩野探幽という人が出てきて、幕府の御用絵師(幕府から一定の報酬を得て

   絵画を担当した絵師のこと)になった

   ※しかし、狩野派の子孫は様式を発展させるわけではなく、同じ様式を繰り返すだけで

    止まってしまった

 

  ・京都で俵屋宗達という人が出てきた

   →俵屋宗達は、土佐派の画法をベースにして、装飾画で新しい様式を作り出した

    ※俵屋宗達の新しい様式は、元禄の時の琳派のベースになったと言われている

 

  ・京都の町衆だった本阿弥光悦という人が出てきた

   →本阿弥光悦は、書道、蒔絵、楽焼の陶芸などで優れた作品を作ったと言われている

   

  

 

 ・当時の絵付について

 

  ・文禄・慶長の役の時に、大名たちが朝鮮人陶工を連れて帰ってきた

   →その朝鮮人陶工が、登窯や上絵付と呼ばれる技術を日本に伝えた

 

   ※登窯や上絵付けの技術が伝えられたことで、九州地方と中国地方で

    陶磁器が作られるようになった

    →代表的な陶磁器に、有田焼(鍋島氏)、薩摩焼(島津氏)、高取焼(黒田氏)、

     萩焼(毛利氏)、平戸焼(松浦氏)、などがある

 

   ※陶磁器の中でも、有田では磁器というものが作られ、酒井田柿右衛門という人が

    赤絵という技術を作った

    ・赤絵・・赤をベースにして、多くの絵具を使い、様々な彩色をする

         上絵付の一つのこと

 

 

 

 ・当時の文芸について

 

  ・教訓や道徳を中心とした仮名草子というものが出てきた

 

  ・連歌から俳諧が独立した

   ※俳諧では、京都の貞徳という人の貞門俳諧という俳諧が流行った

  

  →文芸の面では、庶民の文化の基礎が寛永期に作られたと言われている

 

 

 

ポイント

・当時の学問について押さえる

・当時の建築について押さえる

・当時の絵画について押さえる

・当時の絵付について押さえる

・当時の文芸について押さえる

 

このあたりが今回のポイントです

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