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	<title>アラエス &#187; 足利尊氏</title>
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	<item>
		<title>南北朝の動乱について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1159</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1159#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 21 Oct 2013 19:27:02 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[マイコ]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[南北朝時代・室町時代]]></category>
		<category><![CDATA[北畠親房]]></category>
		<category><![CDATA[南北朝の動乱]]></category>
		<category><![CDATA[単独相続]]></category>
		<category><![CDATA[地縁的結合]]></category>
		<category><![CDATA[建武式目]]></category>
		<category><![CDATA[征夷大将軍]]></category>
		<category><![CDATA[惣領制]]></category>
		<category><![CDATA[観応の擾乱]]></category>
		<category><![CDATA[足利尊氏]]></category>
		<category><![CDATA[高師直]]></category>

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		<description><![CDATA[南北朝の動乱について考えてみます &#160; &#160; ・南北朝の動乱について &#160; 　・足利尊氏が１３３６年に京都を制圧して、持明院統の光明天皇という人を天皇にした 　　→その後、足利尊氏が幕府を開くとい [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1159">南北朝の動乱について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>南北朝の動乱について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・南北朝の動乱について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・足利尊氏が１３３６年に京都を制圧して、持明院統の光明天皇という人を天皇にした</p>
<p>　　→その後、足利尊氏が幕府を開くという目的で、建武式目という式目を作った</p>
<p>　　　※建武式目・・今後の政治の方針を示した式目のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・一方で、後醍醐天皇は京都から逃げて、吉野の山にこもって大覚寺統が</p>
<p>　　正しい皇位だと訴えた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・上の２人の動きによって、吉野の南朝（大覚寺統）と京都の北朝（持明院統）が</p>
<p>　　約６０年対立した</p>
<p>　　＝南朝と北朝の、この対立のことを南北朝の動乱と言う</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・南北朝の動乱の内容について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・南朝側は、動乱の初期に楠木正成や新田義貞が死んでしまうなど、不利な状況だった</p>
<p>　　　※しかし、北畠親房という人が中心になって東北、関東、九州などに拠点を置いたため</p>
<p>　　　　北朝とまだ戦えた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・北朝側は、１３３８年に足利尊氏が征夷大将軍に任命されて、弟の足利直義と</p>
<p>　　　政治や事務を分けて行っていった</p>
<p>　　　※しかし、足利尊氏と足利直義の考え方が違うという問題があった</p>
<p>　　　　→そのため、足利直義を支持する勢力と、足利尊氏の執事だった高師直という人の</p>
<p>　　　　　勢力がぶつかることになった</p>
<p>　　　　　＝足利直義の派閥と足利尊氏の派閥が対立した、この乱のことを観応の擾乱と言う</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→上のような流れによって、足利直義派、足利尊氏派、南朝派の３者が</p>
<p>　　　１０年近く対立し続けることになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　※なぜ、南北朝の動乱が長引いてしまったのか</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・大きな原因の一つに、惣領制の解体があったと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　→当時の武家社会では、本家と分家がそれぞれ独立して、単独相続が一般的になっていた</p>
<p>　　　　※単独相続・・それぞれの家の中で、嫡子（次の惣領）が全ての土地を相続して</p>
<p>　　　　　　　　　　　庶子（嫡子以外の人）は嫡子に従う、という相続制度のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　→惣領制が解体して単独相続が一般的になると、各地の武士団が</p>
<p>　　　　内部分裂と対立を起こすことになる</p>
<p>　　　　※そのため、対立しているどちらか一方が北朝についたら、</p>
<p>　　　　　もう一方は南朝につく、というようなスタイルだった</p>
<p>　　　　　＝このスタイルが結果的に南北朝の動乱を大きくしたと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※なぜ、各地の武士団が内部分裂と対立を起こすようになったのか</p>
<p>　　　→地方武士団が、血縁的結合から地縁的結合を重視するようになっていったから</p>
<p>　　　　だと言われている</p>
<p>　　　　・血縁的結合・・血のつながりのある関係を重視した結合のこと</p>
<p>　　　　・地縁的結合・・住んでいる土地によってできる人とのつながりのこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・南北朝の動乱についておさえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1159">南北朝の動乱について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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		<item>
		<title>建武の新政について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1158</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1158#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 21 Oct 2013 19:20:31 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[マイコ]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[南北朝時代・室町時代]]></category>
		<category><![CDATA[中先代の乱]]></category>
		<category><![CDATA[光厳天皇]]></category>
		<category><![CDATA[建武の新政]]></category>
		<category><![CDATA[村上天皇]]></category>
		<category><![CDATA[綸旨]]></category>
		<category><![CDATA[記録所]]></category>
		<category><![CDATA[足利尊氏]]></category>
		<category><![CDATA[醍醐天皇]]></category>
		<category><![CDATA[鎌倉将軍府]]></category>
		<category><![CDATA[雑訴決断所]]></category>

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		<description><![CDATA[建武の新政について考えてみます &#160; &#160; ・建武の新政について &#160; 　・後醍醐天皇は、すぐに京都に戻って、光厳天皇を天皇から降ろすことで新しい政治を始めた 　　→次の年に、年号を建武に変えた  [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1158">建武の新政について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>建武の新政について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・建武の新政について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・後醍醐天皇は、すぐに京都に戻って、光厳天皇を天皇から降ろすことで新しい政治を始めた</p>
<p>　　→次の年に、年号を建武に変えた</p>
<p>　　　＝そのため、この時の後醍醐天皇の政治を建武の新政と言う</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※後醍醐天皇は、自分の権力を示すために、大内裏（皇居）を作ることを計画した</p>
<p>　　　　→大内裏を作るための費用を得るために、銅銭や紙幣を作ろうとしていたと</p>
<p>　　　　　言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・後醍醐天皇は、院政、幕府、摂政、関白など全てを無くして、</p>
<p>　　権力を全て天皇に集中させようとした</p>
<p>　　→そこで天皇は、土地を持っている人の権利の確認は、全て天皇の綸旨（天皇の命令）が</p>
<p>　　　必要になるという内容の法律を作った</p>
<p>　　　※後醍醐天皇は、天皇政治が最も活発だと言われていた醍醐天皇と村上天皇の親政が</p>
<p>　　　　理想だと考えた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→しかし、実際には後醍醐天皇の力だけで政治を動かしていくことが無理だったので、</p>
<p>　　　以下のような政策を取った</p>
<p>　　　・中央に、記録所（記録荘園券契所の略）や雑訴決断所（引付衆のような機関）を作った</p>
<p>　　　・様々な国に、国司と守護を一緒に置いた</p>
<p>　　　・東北地方に陸奥将軍府、関東地方に鎌倉将軍府という、</p>
<p>　　　　地方を仕切る２つの機関を作り、そこに皇子を派遣した</p>
<p>　　　　※後醍醐天皇は、「鎌倉小幕府」と言われるほど、</p>
<p>　　　　　鎌倉幕府で武士だった人を使っていた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・以上のような動きの中で、２つの大きな問題が出てきた</p>
<p>　　→・天皇中心の新しい政策は、今までの武士の社会にあった慣習が無視されていたため、</p>
<p>　　　　多くの武士が不満を持って、抵抗するようになった</p>
<p>　　　・政治の仕組みが中途半端で、様々な機関にいる人の人間関係が複雑だったので、　　　</p>
<p>　　　　政治や事務が円滑に機能しなくなり、社会自体が混乱してしまった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>　→上のような状況を見て、静かに幕府を復活させることを狙っていた足利尊氏が、</p>
<p>　　１３３５年の中先代の乱をきっかけに関東に行って、</p>
<p>　　後醍醐天皇の政治に反抗しようとした</p>
<p>　　※中先代の乱・・北条高時の子どもの北条時行が反乱を起こして</p>
<p>　　　　　　　　　　鎌倉を占領した出来事のこと</p>
<p>　　　　　　　　　　　→北条時行は、鎌倉を占領した２０日後に足利尊氏に殺された</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・建武の新政の状況を押さえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1158">建武の新政について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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		<item>
		<title>鎌倉幕府の滅亡について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1156</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1156#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 21 Oct 2013 19:12:04 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[マミ]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[鎌倉時代]]></category>
		<category><![CDATA[両統迭立]]></category>
		<category><![CDATA[元弘の変]]></category>
		<category><![CDATA[大覚寺統]]></category>
		<category><![CDATA[後醍醐天皇]]></category>
		<category><![CDATA[得宗専制政治]]></category>
		<category><![CDATA[持明院統]]></category>
		<category><![CDATA[新田義貞]]></category>
		<category><![CDATA[正中の変]]></category>
		<category><![CDATA[足利尊氏]]></category>
		<category><![CDATA[鎌倉幕府]]></category>

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		<description><![CDATA[鎌倉幕府が滅亡する流れを考えてみます &#160; &#160; ・鎌倉幕府が倒れるまでの流れについて &#160; 　・後嵯峨天皇という人が亡くなった後に、皇室が、後深草天皇の影響を受けた持明院統と、 　　亀山天皇の影 [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1156">鎌倉幕府の滅亡について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>鎌倉幕府が滅亡する流れを考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・鎌倉幕府が倒れるまでの流れについて</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・後嵯峨天皇という人が亡くなった後に、皇室が、後深草天皇の影響を受けた持明院統と、</p>
<p>　　亀山天皇の影響を受けた大覚寺統の２つの系統に分かれた</p>
<p>　　→２つの系統は、皇室の荘園、皇位の継承、院政の権利などを得るために、</p>
<p>　　　争うようになった</p>
<p>　　　※さらに、お互いの系統が鎌倉幕府に近づいて、自分達を有利な地位に</p>
<p>　　　　持って行こうとした</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　→上のような流れを受けて、鎌倉幕府は何度か調停を行った</p>
<p>　　＝そのため、２つの系統が交互に皇位につく、という方式を取ることになった</p>
<p>　　＝この方式のことを両統迭立と言う</p>
<p>　</p>
<p>　→この流れの状況の中で、大覚寺統から即位した後醍醐天皇という人が</p>
<p>　　親政（天皇が自分で政治を行うこと）を始めた</p>
<p>　　＝後醍醐天皇は、天皇の地位を安定させようとして、天皇の権限を強化していった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　→一方で、当時の幕府は、執権だった北条高時と内管領だった長崎高資という２人の人が</p>
<p>　　権力を握っていた</p>
<p>　　＝そのため、得宗専制政治に対して、御家人の怒りが高まってきていた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・このような状況の中、幕府が両統迭立を薦めることに対して、天皇は不満を抱いていたため</p>
<p>　　天皇が幕府を倒す計画を考え始めた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※しかし、１３２４年に、幕府を倒す計画が幕府にもれてしまい、失敗に終わった</p>
<p>　　　　＝この出来事を、正中の変と言う</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※さらに、１３３１年に、挙兵の計画を作って実行しようとしたが、失敗に終わった</p>
<p>　　　　＝この出来事を、元弘の変と言う</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→この２回の失敗によって、後醍醐天皇は隠岐という場所に流された</p>
<p>　　　＝その代わり、幕府の推薦によって、持明院統から光厳天皇という人が即位した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・その後、後醍醐天皇の皇子だった護良親王や楠木正成などと呼ばれる人達が</p>
<p>　　悪党などのような、幕府に反発する人達を集めて、幕府の軍と戦った</p>
<p>　　※その間に、後醍醐天皇が隠岐から抜け出して、幕府を倒すように呼びかけを行った</p>
<p>　　　→その結果、幕府を倒そうとして動き出す人が増えてきた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※その状況の中、大きな２つの出来事が起きた</p>
<p>　　　・幕府の軍の指揮官として、畿内に派遣された有力な御家人だった</p>
<p>　　　　足利高氏（のちの尊氏）という人が幕府に反抗して、六波羅探題を倒した</p>
<p>　　　・関東で挙兵した新田義貞という人が、鎌倉を攻めて得宗の北条高時と</p>
<p>　　　　その後の代を倒した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　→この２つが後押しをして、結果的に１３３３年に鎌倉幕府が倒れた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・鎌倉幕府の滅亡についておさえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1156">鎌倉幕府の滅亡について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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