南北朝の動乱について
南北朝の動乱について考えてみます
・南北朝の動乱について
・足利尊氏が1336年に京都を制圧して、持明院統の光明天皇という人を天皇にした
→その後、足利尊氏が幕府を開くという目的で、建武式目という式目を作った
※建武式目・・今後の政治の方針を示した式目のこと
・一方で、後醍醐天皇は京都から逃げて、吉野の山にこもって大覚寺統が
正しい皇位だと訴えた
・上の2人の動きによって、吉野の南朝(大覚寺統)と京都の北朝(持明院統)が
約60年対立した
=南朝と北朝の、この対立のことを南北朝の動乱と言う
・南北朝の動乱の内容について
・南朝側は、動乱の初期に楠木正成や新田義貞が死んでしまうなど、不利な状況だった
※しかし、北畠親房という人が中心になって東北、関東、九州などに拠点を置いたため
北朝とまだ戦えた
・北朝側は、1338年に足利尊氏が征夷大将軍に任命されて、弟の足利直義と
政治や事務を分けて行っていった
※しかし、足利尊氏と足利直義の考え方が違うという問題があった
→そのため、足利直義を支持する勢力と、足利尊氏の執事だった高師直という人の
勢力がぶつかることになった
=足利直義の派閥と足利尊氏の派閥が対立した、この乱のことを観応の擾乱と言う
→上のような流れによって、足利直義派、足利尊氏派、南朝派の3者が
10年近く対立し続けることになった
※なぜ、南北朝の動乱が長引いてしまったのか
・大きな原因の一つに、惣領制の解体があったと言われている
→当時の武家社会では、本家と分家がそれぞれ独立して、単独相続が一般的になっていた
※単独相続・・それぞれの家の中で、嫡子(次の惣領)が全ての土地を相続して
庶子(嫡子以外の人)は嫡子に従う、という相続制度のこと
→惣領制が解体して単独相続が一般的になると、各地の武士団が
内部分裂と対立を起こすことになる
※そのため、対立しているどちらか一方が北朝についたら、
もう一方は南朝につく、というようなスタイルだった
=このスタイルが結果的に南北朝の動乱を大きくしたと言われている
※なぜ、各地の武士団が内部分裂と対立を起こすようになったのか
→地方武士団が、血縁的結合から地縁的結合を重視するようになっていったから
だと言われている
・血縁的結合・・血のつながりのある関係を重視した結合のこと
・地縁的結合・・住んでいる土地によってできる人とのつながりのこと
ポイント
・南北朝の動乱についておさえる
このあたりが今回のポイントです