室町時代の文化について③ -東山文化-
室町時代の文化について、東山文化について考えてみます
・東山文化について
※なぜ東山文化と言うのか
・応仁の乱の後に、足利義政が京都の東山に山荘を作った
→そこに、足利義満のマネをして銀閣を建てた
=銀閣の建築スタイルが、当時の文化を表していると考えられるようになったため、
この時の文化を東山文化と呼ぶようになった
・東山文化の特徴について
・東山文化は禅の精神を中心とした簡素さ、伝統文化にある幽玄や侘が土台だった
・書院造が出てきた
※書院造について
・書院造とは・・寝殿造を基本として、襖障子や明障子を使うなどの
特徴がある建築スタイルのこと
・書院造は銀閣の下層などに使われ、近代の和風の住宅の基本的な様式になった
と言われている
・書院造の家や禅宗様の寺院には、禅の精神が反映された庭園が
作られるようになった
・書院造が出てきたことで、座敷を飾りつける考えが出てきたので
掛け軸や生け花などが発展した
※庭園について
・当時は、同朋衆や河原者と呼ばれる人達が活躍した
※・同朋衆・・花道や茶道などの芸能に優れていて、東山文化に貢献した人達のこと
・河原者・・賤民の身分で、庭園を作るのに活躍した人
→河原者で代表的な人は、東山山荘の庭を作った善阿弥
という人だと言われている
・当時の庭園で代表的なものは、枯山水と呼ばれる岩石と砂利を使って作られた
庭園だと言われている
→枯山水が使われている寺院に、竜安寺や大徳寺大仙院などがある
・水墨画で、雪舟という人が出てきた
※雪舟・・水墨画で活躍して、日本的な水墨画のスタイルを作った人
・大和絵で、土佐光信という人が出てきた
※土佐光信・・応仁の乱の後に大和絵を描いて、土佐派を盛り上げた人
・水墨画と大和絵で、狩野正信・狩野元信という親子が出てきた
※狩野正信・狩野元信親子・・水墨画と大和絵を織り交ぜて、
狩野派というものを作った
・彫刻では、能が発達したことが影響して、能面が多く作られるようになった
・工芸で、後藤祐乗という人が素晴らしい作品を残した
・茶道がこの時代に出てきた
=茶道に関しては、村田珠光という人が侘茶を作った
→侘茶の方式は、武野紹鴎という人がより良いものに高めて、
千利休という人が完成させた
※侘茶・・茶室で心の静けさを得るという、茶道のスタイルの一つ
・花道がこの時代に出てきた
=花道では、立花様式というスタイルが出てきた
→立花様式で代表的な人に、京都六角堂というところにいた池坊専慶という人がいる
※池坊専慶の後、16世紀中頃に池坊専応、16世紀末に池坊専好
という人が出てきて、立花で活躍した
・公家が力を失ってきたので、公家の人達が有職故実や古典の研究を行うようになった
→一条兼良などの人達が多くの研究所や注釈書を作った
※当時、公家が研究した古典について
・古典では、「古今和歌集」が重視されるようになった
→当時、秘事口伝(学問や芸事などの最も大切な部分を口頭で伝えること)の
風潮があったので、古今和歌集の解釈が神聖なものになり、
一部の人にだけ伝えられた
=このことを、古今伝授と言う
※古今伝授は、東常縁という人がより良いものに高めて
宗祇という人がまとめたと言われている
・神道思想を土台にした「日本書紀」の研究が行われた
→吉田兼倶という人は、反本地垂迹説という考え方を土台にして
唯一神道を完成させたと言われている
※唯一神道・・神道を中心にして、儒学と仏教を一つにしようとする考え方のこと
ポイント
・東山文化につい手を押さえる
このあたりが今回のポイントです