室町時代の日本と東アジアとの関係について -日明貿易と日朝貿易-

閲覧数:10,770
投稿者:       投稿日時:2013/10/24 01:16      
評価数:2
評価 : 平均:4点 | 総合:8点
コメント数: 0       お気に入り登録数:8

LINEで送る
Pocket

東アジアとの関係について考えてみます

 

 

・東アジアの動きについて

 

 ・南北朝の動乱の時に、対馬、壱岐、肥前松浦という地方の住民を中心とした海賊の集団が、

  朝鮮半島や中国の沿岸を襲う、という事件が起きた

  =この時の海賊の集団のことを倭寇と言う

 

  ※倭寇は何をしたのか

   →朝鮮半島沿岸の人々を捕まえたり、米や大豆などの食料を奪ったりした

 

  ※高麗という国は倭寇に悩まされていたので、日本に人を送って

   倭寇を禁止することをお願いした

   →しかし、日本の内部が混乱している状況だったので、

    倭寇を禁止させることができなかった

 

 

 

 ・中国の動きについて

 

  ・中国では、1368年に朱元璋という人が元を倒して、明という国を誕生させた

   →明は、中国を中心とした国際関係にすることを目指して、近くの国と交渉した

 

    ※日本は、蒙古襲来の後も元と正式な国交はなく、

     個人的な商船の往復があるだけだった

 

    ※足利尊氏は、夢窓疎石という人のすすめによって、天竜寺という

     後醍醐天皇の冥福を祈るための寺を建てようとしていて、

     そのための費用を得るために天竜寺船という船を元に送った

     →この動きは、建長寺という寺の修復の資金を得ようとして元に送った

      建長寺船の例を参考にしたと言われている

 

  ・足利義満は、明が近くの国と交渉しようとしていることを知って、

   明に使いを送り、国交を開いた

  ※その時の使いの第1回は、正使が僧の祖阿、副使が博多商人の肥富という人だった

 

 

 

 ・日本と明との関係について

 

  ・日本は、明と日明貿易という貿易を行った

   →しかし、明は自分を中心とした国際関係を作りたかった

    =そのため、日本が明に朝貢(日本が明の朝廷に貢物を渡す)して、

     そのお礼に品物を受け取る、という方式だった

     ※このような貿易のスタイルを朝貢貿易と言う

 

  ・国交を開く時に、足利義満は使者に国書(その国のトップが国の名前を使って作る

   外交のための文書のこと)を持たせて明に派遣した

   →この時、明の皇帝は日本に明の暦を渡した

    =そのため、日本から明に送る文書には、「日本国王臣源」と署名していた

 

    ※どういうことなのか

     →当時は、暦を受け取ることは、相手の国に服従する、

      ということを認める象徴的な行為だった

      =そのため、日本は朝貢貿易のような形になってしまった

   

    ※さらに、日本は遣明船(明への船)を明に送る時は、明から渡された

     勘合という証票を持って行くことが義務になった

     =そのため、日明貿易は勘合貿易とも言われている

 

 

  ・日明貿易は、4代将軍の足利義持が朝貢貿易のスタイルに反対して、一旦中断したが、

   6代将軍の足利義教の時に再開した

   

    ※朝貢貿易の時は、日本の滞在費や運搬費などを全て明が負担してくれていた

     =そのため、日本の貿易による利益はとても大きかった

      →特に、明から大量に入ってきた銅銭(明銭)は、

       日本の貨幣の流通に大きな影響を与えたと言われている

 

    ※日本は、武器、工芸品、鉱山物などを輸出した

     日本は、銅銭、生糸、陶磁器、書籍、絵画などを輸入した

     →明から入ってきたモノは、唐物と呼ばれ、重視されていた

 

 

  

 ・日本の貿易の時の状況について

 

  ・15世紀の後半に、幕府が衰退していった

   →それと同時に貿易の権限は、堺の商人と手を組んだ細川氏、

    博多の商人と手を組んだ大内氏などが持つようになった

 

  ・細川氏と大内氏は、貿易の権限のために戦うようになった

   →特に1523年には、寧波というところで大きな対立が起きた

    =この戦いのことを、寧波の乱と言う

 

  ・寧波の乱では、大内氏が勝ったため、貿易の権力を大内氏が独占した

   ※しかし、16世紀に大内氏が倒れると同時に、勘合貿易も止まってしまった

 

  ・勘合貿易が止まった時に、倭寇の活動がまた活発になった

   ※海賊の行動は、豊臣秀吉という人が海賊取締令という法律を出すまで

    続いたと言われている

 

   ※南北朝の内乱の時の倭寇を前期倭寇と言い、

    勘合貿易が止まった時に出てきた倭寇を後期倭寇と言う

 

 

 

 ・当時の朝鮮半島の状況について

 

  ・朝鮮半島では、1392年に、武将の李成桂という人が倭寇を倒したので有名になった

   →李成桂は、高麗を倒して朝鮮を作った

 

  ・朝鮮は国交と倭寇の禁止を日本に求めた

   →この要求に対しては、足利義満が応じたので、日本と朝鮮との間に国交が開かれ、

    貿易も行われた

    =この時の、日本と朝鮮との貿易を日朝貿易と言う

 

  ・日朝貿易は、明との貿易とは違い、最初から守護、国人、商人など様々な人が

   参加して、活発に行われた

   ※朝鮮側は、対馬の宗氏という豪族を通して、国交についての制度を決めて、

    貿易の制限をした

 

   ※日朝貿易は応永の外寇という出来事によって、一回ストップしてしまったが、

    16世紀まで活発に行われた

    応永の外寇・・宗氏のトップが変わって、倭寇の活動が活発になったため、

           1419年に朝鮮軍が対馬を倭寇の本拠地だと考えて、

           対馬を攻撃した出来事のこと

 

  ・朝鮮は、日朝貿易のために、富山浦(釜山)、乃而浦(斉浦)、塩浦(蔚山)の

   3つの港(三浦)を開いて、三浦と朝鮮の首都の漢城(漢陽)に、

   倭館という日本の使いの接待と貿易のための施設を設置した

 

  ・朝鮮からは、特に木綿が大量に輸入された

   →木綿は、日本の衣服に関して大きな影響を与えたと言われている

   

   ※・日本は、鉱山物、工芸品、蘇木、香木などを輸出した

    ・日本は、大蔵経なども輸入した

 

  ・日朝貿易は、1510年に三浦の乱が起きてから、少しずつ減っていってしまった

   ※三浦の乱・・三浦に住んでいた日本人には特権があったが、

          その特権がだんだん少なくなっていったことに対して

          怒った日本人が暴動を起こした事件のこと

 

 

ポイント

・東アジアの動きを押さえる

・中国の動きを押さえる

・日本と明との関係を押さえる

・日本の貿易の状況を押さえる

・朝鮮半島の動きと日本との関係を押さえる

 

このあたりが今回のポイントです

閲覧数:10,770
LINEで送る
Pocket


(2名の投票, 平均点: 4.00, 総合点:8 | 未評価)
Loading ... Loading ...
投稿者:
投稿日時2013/10/24 01:16

コメント数: 0
お気に入り登録数:8



コメントを残す