応仁の乱について① -応仁の乱とその内容-
応仁の乱を中心に当時の状況を考えてみます
・応仁の乱について
・4代将軍の足利義持の時代の時は、将軍と有力守護の勢力が同じくらいだったので、
安定していた社会だった
※1416年に昔関東管領だった上杉禅秀という人が反乱を起こしたが、
鎌倉府に倒されたという出来事が起きた
=この出来事を上杉禅秀の乱と言い、この乱を鎮めたことが
将軍と有力守護の勢力が均衡していた象徴だと言われている
・ところが、6代将軍の足利義教という人は、将軍の権力の強化を目指して、
将軍を中心とした政治を行った
→そこで、足利義教は関東に軍を送り、幕府に反抗的だった鎌倉公方の
足利持氏という人を倒した
=この出来事を永享の乱と言う
※永享の乱とその後について
・永享の乱は、関東管領の上杉憲実と鎌倉公方の足利持氏の戦いだった
・その後1440年に、結城氏朝という人が足利持氏側について挙兵したが倒される
という事件が起きた
=この出来事を結城合戦と言う
・その後、足利持氏の子どもの足利成氏が鎌倉公方になったが、
足利成氏も上杉憲実と対立した
=この対立によって起きた乱を享徳の乱と言う
・1441年に、有力な守護の一人だった赤松満祐という人が6代将軍足利義教を殺す、
という出来事が起きた
=この出来事を嘉吉の変と言う
※この後に、赤松氏が幕府に倒されたが、嘉吉の変以降に将軍の権力が怪しくなってきた
・将軍の権力が弱くなるにつれて、有力な守護どうし、将軍どうし、などでの内紛が増えた
※当時の内紛や戦いの例
・畠山氏と斯波氏のどちらが家督になるか、ということでモメた
・8代将軍足利義政の弟の足利義視という人と、足利義政の妻で、子どもの足利義尚を
推す日野富子という人が家督をめぐって争うようになった
=要は、足利義視と日野富子との間で争いが起きた
・幕府の権力を獲得しようとして戦っていた細川勝元と山名持豊という人が、
上のような家督争いに参加するようになったため、対立が複雑になり、
激しくなっていった
=激しくなったことが原因で、1467年に応仁の乱が始まった
※応仁の乱は、戦国時代の幕開けだと言われている
※なぜ、家督の争いが激しくなったのか
・単独相続によって、嫡子が庶子に比べて圧倒的に優位になって、
嫡子が重要になったから
・家督を決める時に、父親の意見だけでなく、将軍や家臣の意見にも
大きく影響を与えるようになったから
ポイント
・応仁の乱とその内容についておさえる
このあたりが今回のポイントです