建武の新政について
建武の新政について考えてみます
・建武の新政について
・後醍醐天皇は、すぐに京都に戻って、光厳天皇を天皇から降ろすことで新しい政治を始めた
→次の年に、年号を建武に変えた
=そのため、この時の後醍醐天皇の政治を建武の新政と言う
※後醍醐天皇は、自分の権力を示すために、大内裏(皇居)を作ることを計画した
→大内裏を作るための費用を得るために、銅銭や紙幣を作ろうとしていたと
言われている
・後醍醐天皇は、院政、幕府、摂政、関白など全てを無くして、
権力を全て天皇に集中させようとした
→そこで天皇は、土地を持っている人の権利の確認は、全て天皇の綸旨(天皇の命令)が
必要になるという内容の法律を作った
※後醍醐天皇は、天皇政治が最も活発だと言われていた醍醐天皇と村上天皇の親政が
理想だと考えた
→しかし、実際には後醍醐天皇の力だけで政治を動かしていくことが無理だったので、
以下のような政策を取った
・中央に、記録所(記録荘園券契所の略)や雑訴決断所(引付衆のような機関)を作った
・様々な国に、国司と守護を一緒に置いた
・東北地方に陸奥将軍府、関東地方に鎌倉将軍府という、
地方を仕切る2つの機関を作り、そこに皇子を派遣した
※後醍醐天皇は、「鎌倉小幕府」と言われるほど、
鎌倉幕府で武士だった人を使っていた
・以上のような動きの中で、2つの大きな問題が出てきた
→・天皇中心の新しい政策は、今までの武士の社会にあった慣習が無視されていたため、
多くの武士が不満を持って、抵抗するようになった
・政治の仕組みが中途半端で、様々な機関にいる人の人間関係が複雑だったので、
政治や事務が円滑に機能しなくなり、社会自体が混乱してしまった
→上のような状況を見て、静かに幕府を復活させることを狙っていた足利尊氏が、
1335年の中先代の乱をきっかけに関東に行って、
後醍醐天皇の政治に反抗しようとした
※中先代の乱・・北条高時の子どもの北条時行が反乱を起こして
鎌倉を占領した出来事のこと
→北条時行は、鎌倉を占領した20日後に足利尊氏に殺された
ポイント
・建武の新政の状況を押さえる
このあたりが今回のポイントです