応仁の乱について② -応仁の乱以降の流れと一揆-
応仁の乱について、応仁の乱以降の流れと一揆について考えてみます
・応仁の乱以降の流れについて
・守護大名は、東軍の細川派と西軍の山名派の2つの軍に分かれて戦った
→その時、東軍は将軍の家を占拠して、足利義政、足利義視、足利義尚を
抑えつけることに成功したが次の年に足利義視が東軍から逃げ出して、
西軍に回っていった
=そのため、東と西に1つずつ幕府が作られるようになった
※この時、戦いの場所となった京都は、ボロボロになった
・応仁の乱は、1477年に両軍が戦いに疲れたという理由で、
お互いに和解して終戦を迎えた
※しかし、争いは地方では続いていて、地方の争いが全国に広がっていった
=この争いによって、守護大名が京都から自分の担当する国に戻ったので、
有力な守護が京都にいて幕府に参加する、という幕府の体制は終了した
※それと同時に、荘園制も終了した
・守護大名が京都で戦っていた時、守護大名の国では、国の中で戦っていた守護代や
有力な国人が力をつけてきた
=そのため、国を支配する権利は少しずつ守護代や有力な国人に移っていった
※このような混乱している複雑な状況で、地方の国人は自分達の利益を守ろうとして、
国人一揆を作った
→代表的なものに、山城の国一揆や加賀の一向一揆などがある
・山城の国一揆について
・1485年に山城の国一揆が起きた
・山城の国一揆とは・・山城という地方で、2つの派閥に分かれて争っていた時に、
畠山氏を国から追い出した一揆のこと
・山城の国一揆は、山城の住民達に支持されて、一揆の人達が8年間山城を支配することになった
・加賀の一向一揆について
・1488年に加賀の一向一揆がおきた
・加賀の一向一揆とは・・本願寺の蓮如という人が広めた浄土真宗本願寺派という宗派の
勢力を使って、加賀の門徒が国人と手を組んで
守護の富樫政親という人を倒した一揆のこと
・一揆が実際に支配している本願寺の国は、約1世紀一揆が支配していた
ポイント
・応仁の乱以降の流れを押さえる
・一揆を押さえる
このあたりが今回のポイントです