戦国大名について
戦国大名について考えてみます
・戦国大名について
※戦国大名はいつ、どのように出てきたのか
→・応仁の乱の時に、それぞれの地域で実力のある支配者が出てきた
・16世紀の前半に、近畿地方では室町幕府の権力のために、
細川氏を中心とした内部の権力争いがあった
※その権力争いの時に、幕府の権力は三好長慶という人に移り、
さらにその後に松永久秀という人が権力を握った
・近畿以外の地方では、自分の力で領国(分国)を作って、自分で支配を行う
地方の権力が出てきた
=この地方の権力を握ったトップの人を戦国大名と言う
・どのような戦国大名がいたのか
・関東では、享徳の乱という乱をきっかけに、鎌倉公方と関東管領の上杉氏のそれぞれが
2つに分裂して戦った
※鎌倉公方→足利持氏の子どもの足利成氏という人を中心とした古河公方と
足利義政の兄弟の足利政知という人を中心とした堀越公方に分かれた
関東管領の上杉氏→山内と扇谷の2つの上杉家に分かれた
→この混乱の時に、15世紀末に京都から出てきた北条早雲(伊勢宗瑞)という人が
堀越公方を倒して伊豆を乗っ取った
※堀越公方の足利政知が死んだ後に、茶々丸という人が堀越公方を継承した
その後、1493年に北条早雲が伊豆を奪ったため、茶々丸が1498年に自殺した
→さらに、北条早雲は相模という場所に行って小田原を本拠地にした
=結果的に、北条早雲の子どもの北条氏綱と孫の北条氏康の時に、
北条氏が関東のほとんどを支配する大名になっていった
※ここでの北条氏は、鎌倉時代の北条氏と区別をするために、
戦国大名の北条氏を後北条氏と呼ぶこともある
・中部では、16世紀の半ばごろに、越後の守護だった上杉氏の守護代を
長尾氏が担当していた
→長尾氏から長尾影虎という人が出てきて、長尾影虎が関東管領の上杉氏を受け継いだ
※その時に、長尾影虎は自分のことを上杉謙信と名乗った
→その裏で、甲斐という場所から信濃という場所に領国を広げていた武田信玄
という人が出てきた
→そこで、上杉謙信側と武田信玄側が、北信濃の川中島などで戦うようになった
=この戦いを川中島の戦いと言う
・中国地方では、守護大名として権力を握っていた大内氏が、16世紀の半ばに
重臣の陶晴賢に国を奪われるという出来事が起きた
→その後、安芸という場所の国人だった毛利元就という人が陶晴賢の代わりを担当した
※毛利元就は、山陰地方の尼子氏と何度も戦闘を繰り返した
・当時の戦国大名について
・当時の戦国大名には、守護や国人から戦国大名になった人が多かった
→そのため、戦国時代は守護のような昔からの権力が通用しなくなってしまった
※戦国大名として権力を維持するためには、領主の支配が危なくなった家臣や、
生活が危なくなった領国に住んでいる人達の支持が必要になった
=結局、戦国大名は軍事の指導者や領国の支配者としての力が必要になった
と言われている
※今川や武田など、守護から出た戦国大名は、幕府の権力を頼らないで
自分で領国を支配した
・戦国大名は、国人や地侍などを自分の手下にしていった
→その時に、貫高制を採用した
※貫高制・・国人や地侍の収入を貫高という基準でまとめて把握して、
その地位や収入を保障する代わりに国人や地侍の貫高に合わせた
一定の軍役を負担させた制度のこと
=貫高制によって、戦国大名の軍事制度の土台が完成したと言われている
・戦国大名は、寄親・寄子制を採用した
※寄親・寄子制・・戦国大名が、自分の手下にした多くの地侍を有力な家臣に渡す
というようにして、仮の親子関係を作ることで、
組織化をして身分を保障するための制度のこと
=寄親・寄子制によって、鉄砲や長槍などの新しい武器を使った戦いも
出来るようになったと言われている
ポイント
・戦国大名が出来るまでを押さえる
・各地の戦国大名を押さえる
・当時の戦国大名を押さえる
このあたりが今回のポイントです