豊臣秀吉の政策について -太閤検地と刀狩と人掃令-
豊臣秀吉の政策について、太閤検地と刀狩と人掃令を中心に考えてみます
・豊臣秀吉の政策について
・豊臣秀吉が出した政策の中心は、太閤検地と刀狩と人掃令だった
・太閤検地について
※太閤検地とは・・豊臣秀吉が獲得した領地に行った一連の検地のこと
→太閤は、以前関白だった人のことを指す
・太閤検地では、土地の面積を表示する時の基準を、町、段、畝、歩、
という新しい基準で統一した
※以前は、6尺5寸四方=1歩、360歩=1段だったが、
この時は、6尺3寸四方=1歩、300歩=1段とした
・太閤検地の時に、今までバラバラだった枡を、京枡という枡に統一した
・さらに、村ごとに田畑や屋敷地の面積や等級を調べて、その石高(村高)を決めた
※石高はどのようにして決められたのか
・田畑に、上、中、下、下々などと呼ばれる等級をつけた
・その等級によって生産力を決め、生産力をお米の量で表現した
→この時の、1段当たりの生産力を石盛、石盛と面積をかけて出た数値を
石高と呼んだ
=このようにして、石高を使った制度を石高制と呼んだ
・太閤検地の時に、一地一作人を採用した
※一地一作人・・荘園制の時は、一つの土地に対して何人もの権利が重なり合っている
という状態だったので、その状態を整理して、検地帳に実際に
耕作している1人の農民の田畑と屋敷地を登録する仕組みのこと
→この仕組みによって、その農民だけが土地への権利を持ち、年貢を負担することで、
中間の搾取を全て排除することになった
※当時の年貢の額は、二公一民(領主に石高の3分の2を納める)が基本だった
・豊臣秀吉は、1591年に天下統一を終え、その後全国の大名に対して、
自分の領国の検地帳と国絵図を提出させることを命令した
→これによって、全ての大名の石高が分かり、大名が自分の領国の石高に合わせて
軍役を提供するという体制が完成した
・刀狩について
※刀狩とは・・農民の身分をはっきりさせるという目的で、農民から武器を没収すること
・荘園制の時は、農民の中で刀を始めとした武器を持つ人が多かったため
土一揆や一向一揆の時に武器があることによって、一揆で活躍した農民が多かった
→そこで、豊臣秀吉は一揆をさせないで、農民に農業を専念してもらうことを狙って、
1588年に刀狩令という法律を作った
=刀狩令によって、農民の武器が没収された
・人掃令について
・1591年に豊臣秀吉が人掃令という法律を作った
※人掃令・・武家奉公人が町人や百姓になること、百姓が商人や職人になることを
禁止した法律のこと
・1592年に、関白だった豊臣秀次という人が、
朝鮮に出兵するための人を確保するために、人掃令を強化した
→これによって、武家奉公人、町人、百姓の職業別に、戸数と人数を調査して、確定した
=この結果、それぞれの身分が変わることなく、身分がはっきりと決まったので、
人掃令は身分統制令と言われることもある
※豊臣秀吉はなぜ、太閤検地、刀狩、人掃令を出したのか
・身分制度をはっきりさせて、農民は農民として、武士は武士としての役割を
徹底してほしかった
→そのため、身分をはっきり分けた
=身分をはっきり分けたこの政策を、兵農分離という
※自治的に村を運営する方式、村請などは、太閤検地、刀狩、人掃令などの法律が
出ても続いていた
・村請・・年貢などを村で一括して納める制度のこと
ポイント
・太閤検地、刀狩、人掃令などを押さえる
・太閤検地、刀狩、人掃令の理由とその後を押さえる
このあたりが今回のポイントです