豊臣秀吉の政策について -太閤検地と刀狩と人掃令-

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投稿者:       投稿日時:2013/10/24 03:53      
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豊臣秀吉の政策について、太閤検地と刀狩と人掃令を中心に考えてみます

 

 

・豊臣秀吉の政策について

 

 ・豊臣秀吉が出した政策の中心は、太閤検地と刀狩と人掃令だった

 

 

 

・太閤検地について

 

 ※太閤検地とは・・豊臣秀吉が獲得した領地に行った一連の検地のこと

          →太閤は、以前関白だった人のことを指す

 

 

 ・太閤検地では、土地の面積を表示する時の基準を、町、段、畝、歩、

  という新しい基準で統一した

  ※以前は、6尺5寸四方=1歩、360歩=1段だったが、

   この時は、6尺3寸四方=1歩、300歩=1段とした

 

 

 ・太閤検地の時に、今までバラバラだった枡を、京枡という枡に統一した

 

 

 ・さらに、村ごとに田畑や屋敷地の面積や等級を調べて、その石高(村高)を決めた

  

   ※石高はどのようにして決められたのか

    ・田畑に、上、中、下、下々などと呼ばれる等級をつけた

    ・その等級によって生産力を決め、生産力をお米の量で表現した

     →この時の、1段当たりの生産力を石盛、石盛と面積をかけて出た数値を

      石高と呼んだ

      =このようにして、石高を使った制度を石高制と呼んだ

 

 

 ・太閤検地の時に、一地一作人を採用した

  ※一地一作人・・荘園制の時は、一つの土地に対して何人もの権利が重なり合っている

          という状態だったので、その状態を整理して、検地帳に実際に

          耕作している1人の農民の田畑と屋敷地を登録する仕組みのこと

 

   →この仕組みによって、その農民だけが土地への権利を持ち、年貢を負担することで、

    中間の搾取を全て排除することになった

 

  ※当時の年貢の額は、二公一民(領主に石高の3分の2を納める)が基本だった

    

 

 ・豊臣秀吉は、1591年に天下統一を終え、その後全国の大名に対して、

  自分の領国の検地帳と国絵図を提出させることを命令した

  →これによって、全ての大名の石高が分かり、大名が自分の領国の石高に合わせて

   軍役を提供するという体制が完成した

 

 

 

 

・刀狩について

 

 ※刀狩とは・・農民の身分をはっきりさせるという目的で、農民から武器を没収すること

 

 ・荘園制の時は、農民の中で刀を始めとした武器を持つ人が多かったため

  土一揆や一向一揆の時に武器があることによって、一揆で活躍した農民が多かった

  →そこで、豊臣秀吉は一揆をさせないで、農民に農業を専念してもらうことを狙って、

   1588年に刀狩令という法律を作った

   

 =刀狩令によって、農民の武器が没収された

 

 

 

 

・人掃令について

 

 ・1591年に豊臣秀吉が人掃令という法律を作った

  ※人掃令・・武家奉公人が町人や百姓になること、百姓が商人や職人になることを

        禁止した法律のこと

 

 

 ・1592年に、関白だった豊臣秀次という人が、

  朝鮮に出兵するための人を確保するために、人掃令を強化した

  →これによって、武家奉公人、町人、百姓の職業別に、戸数と人数を調査して、確定した

   =この結果、それぞれの身分が変わることなく、身分がはっきりと決まったので、

    人掃令は身分統制令と言われることもある

 

 

 

※豊臣秀吉はなぜ、太閤検地、刀狩、人掃令を出したのか

 ・身分制度をはっきりさせて、農民は農民として、武士は武士としての役割を

  徹底してほしかった

  →そのため、身分をはっきり分けた

   =身分をはっきり分けたこの政策を、兵農分離という

 

 ※自治的に村を運営する方式、村請などは、太閤検地、刀狩、人掃令などの法律が

  出ても続いていた

  ・村請・・年貢などを村で一括して納める制度のこと

 

 

ポイント

・太閤検地、刀狩、人掃令などを押さえる

・太閤検地、刀狩、人掃令の理由とその後を押さえる

 

このあたりが今回のポイントです

 



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