キリスト教と南蛮貿易について
キリスト教と南蛮貿易について考えてみます
・南蛮貿易とキリスト教について
・南蛮貿易までの流れについて
・1543年に、ポルトガル人を乗せた中国人倭寇という船が
九州の南にある種子島という島に着いた
※この時に種子島に来た人が、日本に初めてきたヨーロッパ人だと言われている
・種子島のトップだった種子島時尭という人は、ポルトガル人が持っていた鉄砲を買って、
自分の家臣に鉄砲の使い方と作り方を勉強させた
→この流れがあってから、ポルトガル人は毎年九州に来て、日本との貿易を行うようになった
→さらに、スペイン人が1584年に肥前の平戸という場所に来て、日本との貿易を始めた
=当時の日本は、ポルトガル人とスペイン人を南蛮人と呼んでいたため、
この時の貿易を南蛮貿易と言う
・南蛮貿易について
・南蛮人は、中国の生糸、火薬、鉄砲などを日本に持ってきた
・一方で日本は、銀などを南蛮人に提供した
※貿易は、平戸、豊後府内(現在の大分)、長崎などで行われた
※南蛮貿易によって、日本はどのように変わったのか
→・鉄砲が新しい有力な武器として、戦国大名の中で流行った
・鉄砲の普及によって、足軽鉄砲隊という軍隊が作られるようになり、
今までの騎馬戦を中心とした戦い方が変わるようになった
・鉄砲が普及したことで、防御のための施設としての城の構造を
鉄砲向けに変えることになった
・南蛮貿易は、キリスト教を布教する活動と同時に行われた
→日本では、1549年にイエズス会の宣教師だったフランシスコ=ザビエル
という人が鹿児島に来て、大内義隆や大友義鎮などの大名に保護されて布教を始めた
※当時のヨーロッパでは、宗教改革が原因でプロテスタントの勢いが活発だったが
カトリックも勢いを取り戻そうとして、修道会というところが
アジアで布教しようとしていた
→修道会の一つがイエズス会であり、当時の日本では
キリスト教をキリシタンと呼んでいた
・宣教師は何度も日本に来て、南蛮寺やコレジオ、セミナリオなどと呼ばれる
建物を作って、布教を目指した
※ザビエルの後に、ガスパル=ヴィレラやルイス=フロイスなどの人達が布教を行い
キリスト教が広まっていった
・当時、ポルトガル船はキリスト教の布教を認めた大名の領の港に入っていったため、
大名は、貿易と宣教師の活動の2つを保護することを行った
※このように、キリスト教に積極的だった大名を、キリシタン大名という
※キリシタン大名のうち、大友義鎮、有馬晴信、大村純忠の3人の大名は、
イエズス会の宣教師だったヴァリニャーニという人の進めによって、
1582年に少年使節をローマ教皇のところに派遣した
=この時に派遣した少年使節を、天正遣欧使節という
→天正遣欧使節として、伊藤マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、
中浦ジュリアンの4人の少年が派遣され、ローマの教皇だった
グレゴリウス13世に会って、1590年に帰ってきた
ポイント
・戦国時代時のヨーロッパの動きを押さえる
・南蛮貿易とキリスト教の動きを押さえる
このあたりが今回のポイントです