室町時代の文化について④ -庶民と地方の文化-
室町時代の文化について、庶民、地方、新仏教について考えてみます
・庶民への文化の普及について
・室町時代では、庶民の地位が上がってきたので、庶民が楽しむ文化が出てきた
・庶民は、茶や連歌などの寄合を楽しむようになった
・娯楽の性格が強い能が、各地のお祭りなどで盛んに行われるようになった
・狂言が、庶民の中で流行るようになった
※狂言・・能の間の時間に演じられていた、風刺の性格が強い喜劇のこと
→狂言の題材は人々の生活で、日常会話のセリフなどが使われたので、
庶民の中で流行った
・庶民には、幸若舞、古浄瑠璃、小歌などと言われている芸能が流行った
※小歌については、「閑吟集」という歌集が作られた
・庶民に、御伽草子という物語が好まれた
※御伽草子とは・・短編物語の総称のことで、平安時代の仮名草子の後に出てきていて、
童話のような作品が多い
→御伽草子は、絵の空いてる部分に当時の話し言葉で書かれているスタイルの
ものが多かった
=そのため、ただ読むだけではなく、絵を見ても楽しむことが出来るようになった
・連歌を楽しむようになった
※連歌について
・二条良基という人が「菟玖波集」という連歌集を作って、
「応安新式」という連歌のルールを作った
・「菟玖波集」が勅撰集と同格と扱われるようになってからは、
和歌と同じ地位として扱われるようになった
・宗祇という人が、正風連歌という連歌のスタイルを作り、
「新撰菟玖波集」という連歌集を作った
→宗祇は、「水無瀬三吟百韻」というものを読んだ
・宗鑑という人が、俳諧連歌という連歌のスタイルを作り、
「犬筑波集」という連歌集を作った
・連歌は、連歌師という連歌を職業とする人がいたので広まったと言われている
・盆踊りが盛んになった
※昔は、お祭りの時やお盆の日などに、様々な飾り付けを作ったり、
華やかな格好をしたりして踊る風潮があった
=この風潮に念仏踊りが組み合わさったのが、盆踊りだった
→以上のような民衆の芸能は、多くの人々が共同で行って楽しむことが
特徴の一つだと言われていた
・地方の文化について
※なぜ地方に文化が広がったのか
・応仁の乱によって京都がボロボロになった時に、京都の公家が
地方の戦国大名を頼ろうとして、地方に行った
→地方の武士は、中央の文化に憧れを抱いていたので、地方にきた京都の公家を
積極的に受け入れた
※地方で文化が普及した例
・大内氏の城下町だった山口では、儒学や和歌などの古典についての講義が
行われるようになった
・肥後の菊池氏や薩摩の島津氏は、桂庵玄樹という人を呼んできて儒学の講義を開いた
※桂庵玄樹は、薩摩で朱熹という人の「大学章句」を出版したり、
後の薩南学派の土台を作ったりした
・中部や関東地方を回って、地方の人々を交流しながら優れた漢詩文を作る禅僧がいた
→代表的な人に万里集九という人がいる
・関東では、15世紀の中ごろに関東管領だった上杉憲実という人が
足利学校を復興させた
※当時は、地方の武士の子弟を寺院に預けて教育を受けさせるという風習が既にあった
→勉強する時には、教科書として「庭訓往来」や「御成敗式目」などが使われていた
・都市で力のある商工業の人達も読み、書き、計算などが必要になった
→中には、奈良の商人が「節用集」という辞書を作る、というようなこともあった
・農村の指導者も、村を適切に運営していくために、読み、書き、計算などが必要になった
→農村の指導者が勉強する必要になったので、農村でも文学が知られるようになっていった
ポイント
・室町時代の庶民の文化についておさえる
・室町時代の地方の文化についておさえる
このあたりが今回のポイントです
コメント
わかりやすくて良いと思う
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