室町時代の文化について② -北山文化-

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投稿者:       投稿日時:2013/10/24 01:41      
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室町時代の文化について、北山文化について考えてみます

 

 

・北山文化について

 

 ※なぜ北山文化と言うのか

  ・3代将軍足利義満が、京都の北山という場所に山荘(北山殿)を作った

   →そこに作られた金閣の建築スタイルが、寝殿造と禅宗様を組み合わせたようなものだった

    =金閣の建築スタイルが、時代の特徴を表現していると考えられるようになったため、

     この時代を北山文化と呼ぶようになった

 

 

 

 ・北山文化の特徴について

 

  ・夢窓疎石という人が幕府から信頼されるようになったため、

   臨済宗という宗派が活発になった

 

 

  ・五山・十刹の制が完成した

   

    ※五山・十刹の制について

     ・五山・十刹の制とは・・五山と十刹を決めた制度のこと

     ・五山には京都五山と鎌倉五山があり、五山の上の位に南禅寺という寺を定めた

      →五山の下には、京都と鎌倉のそれぞれに十刹という10の官寺を置き、

       十刹の下に様々な寺があった

      

      ※・京都五山・・天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺が定められた

       ・鎌倉五山・・建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺が定められた

       ・十刹については、幕府は僧録という役職を置いて官寺を管理して、

        住職などの任命などを行った

 

 

  ・五山の禅僧の中には、中国からの僧や中国に留学していて帰ってきた僧が多かった

   →このような僧は、水墨画、建築のスタイルなどを伝えたと言われている

 

    ※水墨画について

     ・水墨画とは・・墨の濃淡を使うことで、人や自然を表現する方法のこと

     ・水墨画は、禅の精神を絵にして表したものだと言われている

     ・日本の水墨画の基礎を作ったのは、五山の僧だった明兆、如拙、周文など

      だと言われている

 

 

  ・宋の研究や漢詩文を作ることなどが積極的に行われた

   →このような文化は、足利義満の時代に絶海中津や義堂周信と呼ばれる人達が

    出てきた時が最も勢いがあったと言われている   

    =この文化を五山文化と言う

 

    ※絶海中津や義堂周信は、幕府の政治に大きく貢献し、五山版と呼ばれる禅の経典や

     漢詩文の文集などを出版したこともあり、中国の文化を広めるためにも

     大きな役割を果たしたと言われている

 

 

  ・能が活発になった

   

    ※能について

     ・能とは・・猿楽や田楽の中で、歌舞や演劇のスタイルを使ったもののこと

     ・北山文化の時に寺社の保護によって、能を行う専門の集団(座)が出てきて、

      様々な場所で能を行った

      →その中でも、興福寺を本所としていた4つの座(観世、宝生、金春、金剛)は

       大和猿楽四座と呼ばれていた

      →観世座に出ていた観阿弥・世阿弥の親子は、足利義満の保護を受けて、

       猿楽能という能を完成させた

       ※観阿弥・世阿弥の親子は謡曲を多く書き、「風姿花伝」などを残した

        ・謡曲・・能の脚本のこと

        ・風姿花伝・・能の本質について書いた理論書のこと

 

 

ポイント

・北山文化についておさえる

 

このあたりが今回のポイントです

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