室町時代の文化について② -北山文化-
室町時代の文化について、北山文化について考えてみます
・北山文化について
※なぜ北山文化と言うのか
・3代将軍足利義満が、京都の北山という場所に山荘(北山殿)を作った
→そこに作られた金閣の建築スタイルが、寝殿造と禅宗様を組み合わせたようなものだった
=金閣の建築スタイルが、時代の特徴を表現していると考えられるようになったため、
この時代を北山文化と呼ぶようになった
・北山文化の特徴について
・夢窓疎石という人が幕府から信頼されるようになったため、
臨済宗という宗派が活発になった
・五山・十刹の制が完成した
※五山・十刹の制について
・五山・十刹の制とは・・五山と十刹を決めた制度のこと
・五山には京都五山と鎌倉五山があり、五山の上の位に南禅寺という寺を定めた
→五山の下には、京都と鎌倉のそれぞれに十刹という10の官寺を置き、
十刹の下に様々な寺があった
※・京都五山・・天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺が定められた
・鎌倉五山・・建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺が定められた
・十刹については、幕府は僧録という役職を置いて官寺を管理して、
住職などの任命などを行った
・五山の禅僧の中には、中国からの僧や中国に留学していて帰ってきた僧が多かった
→このような僧は、水墨画、建築のスタイルなどを伝えたと言われている
※水墨画について
・水墨画とは・・墨の濃淡を使うことで、人や自然を表現する方法のこと
・水墨画は、禅の精神を絵にして表したものだと言われている
・日本の水墨画の基礎を作ったのは、五山の僧だった明兆、如拙、周文など
だと言われている
・宋の研究や漢詩文を作ることなどが積極的に行われた
→このような文化は、足利義満の時代に絶海中津や義堂周信と呼ばれる人達が
出てきた時が最も勢いがあったと言われている
=この文化を五山文化と言う
※絶海中津や義堂周信は、幕府の政治に大きく貢献し、五山版と呼ばれる禅の経典や
漢詩文の文集などを出版したこともあり、中国の文化を広めるためにも
大きな役割を果たしたと言われている
・能が活発になった
※能について
・能とは・・猿楽や田楽の中で、歌舞や演劇のスタイルを使ったもののこと
・北山文化の時に寺社の保護によって、能を行う専門の集団(座)が出てきて、
様々な場所で能を行った
→その中でも、興福寺を本所としていた4つの座(観世、宝生、金春、金剛)は
大和猿楽四座と呼ばれていた
→観世座に出ていた観阿弥・世阿弥の親子は、足利義満の保護を受けて、
猿楽能という能を完成させた
※観阿弥・世阿弥の親子は謡曲を多く書き、「風姿花伝」などを残した
・謡曲・・能の脚本のこと
・風姿花伝・・能の本質について書いた理論書のこと
ポイント
・北山文化についておさえる
このあたりが今回のポイントです