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	<title>アラエス &#187; 鎮護国家</title>
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	<description>－全ての人に学びの空間を－</description>
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	<item>
		<title>院政について②　－院政の時期の様子－</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1136</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1136#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 21 Oct 2013 17:08:12 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[康太]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[平安時代]]></category>
		<category><![CDATA[不輸・不入]]></category>
		<category><![CDATA[八条院領]]></category>
		<category><![CDATA[奥州藤原氏]]></category>
		<category><![CDATA[知行国の制度]]></category>
		<category><![CDATA[藤原清衡]]></category>
		<category><![CDATA[鎮護国家]]></category>
		<category><![CDATA[長講堂領]]></category>
		<category><![CDATA[院分国の制度]]></category>
		<category><![CDATA[院政]]></category>
		<category><![CDATA[院近臣]]></category>

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		<description><![CDATA[院政について、院政の時期の様子を考えてみます &#160; &#160; ・院政の時期の様子について &#160; 　・上皇のまわりには、院近臣と呼ばれる集団が集まり、院近臣が上皇の力を借りて、 　　収益の多い国の国司な [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1136">院政について②　－院政の時期の様子－</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>院政について、院政の時期の様子を考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・院政の時期の様子について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・上皇のまわりには、院近臣と呼ばれる集団が集まり、院近臣が上皇の力を借りて、</p>
<p>　　収益の多い国の国司などの官職に任命されることがあった</p>
<p>　　　※・院司として上皇に従った近臣たちは、最初は朝廷での官職が</p>
<p>　　　　　さほど高いわけではなく、様々な国の国司を担当した人が多かった</p>
<p>　　　　・院近臣・・裕福な受領、后妃、乳母の一族などのこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・院政の時期に、知行国の制度、院分国の制度などが広がった</p>
<p>　　→そのため、公領が知行国主や国司の自分の土地（私領）のようになった</p>
<p>　　　＝この動きが、院政の経済を支える基盤になったといわれている</p>
<p>　　　</p>
<p>　　　※・院分国の制度・・院自身が国の収益を得る制度のこと</p>
<p>　　　　・知行国の制度・・上級の貴族に、知行国主として一つの国の支配権を与えて、</p>
<p>　　　　　　　　　　　　　その国からの収入を知行国主に与える制度のこと</p>
<p>　　　</p>
<p>　　　※なぜ、知行国の制度を作ったのか</p>
<p>　　　　・知行国主は、自分の子どもや近親の人などを国守に任命して、</p>
<p>　　　　　現地に目代を派遣して国の支配をした</p>
<p>　　　　　→この時に、貴族の給料を表面上は与えるとしておきながら実際は与えない</p>
<p>　　　　　　ということが起きたので、貴族の収益を確保する、という目的で</p>
<p>　　　　　　知行国の制度が作られることになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・院政の時期には、寄進地系荘園も経済の基盤になった</p>
<p>　　→・鳥羽上皇の時代には、院のまわりに荘園の寄進が集まったり、</p>
<p>　　　　有力な貴族や大きな寺院への荘園の寄進なども増えた</p>
<p>　　　・上皇は、近親の女性と同じような待遇を与えた</p>
<p>　　　　→代表的なものに、八条院領、長講堂領などがある</p>
<p>　　　　　※・八条院領・・鳥羽法皇が皇女である八条院に伝えた荘園のこと</p>
<p>　　　　　　・長講堂領・・後白河法皇が長講堂に寄進した荘園のこと</p>
<p>　　　</p>
<p>　・不輸や不入の権を持っている荘園が一般的になって、</p>
<p>　　不入の権が警察権を排除するレベルまで拡大された</p>
<p>　　＝そのため、荘園の独立的な性格が強くなった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・大寺院が多くの荘園を持ち、大寺院にいる下級の僧侶を僧兵として、国司と争ったり、</p>
<p>　　朝廷に強訴（訴えや要求をすること）をして要求を通そうとしたりした</p>
<p>　　※・興福寺の僧兵を奈良法師と言い、京都に入って強訴した</p>
<p>　　　・延暦寺の僧兵を山法師と言い、日吉神社の神輿をかついで強訴をした</p>
<p>　　　・興福寺を南都、延暦寺を北嶺と言う</p>
<p>　　　・大寺院は鎮護国家を提唱していた</p>
<p>　　　　→大寺院の上のような行動は、法ではなく実力で争うという、院政の時期の社会の特徴を　　</p>
<p>　　　　　表現していると言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・神や仏の権威を恐れた貴族は、大寺院の力に対抗することができず、</p>
<p>　　武士を使って警護や鎮圧を行わせた</p>
<p>　　＝このような動きがあり、武士が中央の政治の世界に進むきっかけになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・地方は、各地の武士が館という建物を作って、一族や地域などの結びつきを強めるようになった</p>
<p>　　※特に奥羽地方では、陸奥の平泉という場所を拠点にして、藤原清衡の力が強くなっていった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・奥州藤原氏は、清衡、基衡、秀衡の３代で約１００年の間、繁栄していった</p>
<p>　　※奥州藤原氏が行ったこと</p>
<p>　　　・金や馬などの産物の富で京都の文化を移入してきた</p>
<p>　　　・北の方の土地との交易によって、奥州独自の文化を育てた</p>
<p>　　　・奥州の２回の反乱の後に、奥州の藤原氏が勢力をきずくようになった</p>
<p>　　　・北の方の産物が都に持っていかれるようになった</p>
<p>　　　・藤原氏は金によって、平泉を中心に繁栄した　etc</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・院政の時期には、私的な土地の所有が行われるようになった</p>
<p>　・院、大寺社、武士などが独自な権力を持つようになり、権力が分かれていくようになった</p>
<p>　・社会を法律などではなく、実力で動かそうとする風潮が強くなっていった</p>
<p>　　→以上のような特徴を踏まえた当時の社会は、中世社会と言われるようになり、</p>
<p>　　　この時期から中世社会が始まったと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・院政の時期の様子について押さえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1136">院政について②　－院政の時期の様子－</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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	</item>
		<item>
		<title>天平文化について　－様々な書物・思想と美術－</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1121</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1121#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 21 Oct 2013 15:15:16 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[足利]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[奈良時代]]></category>
		<category><![CDATA[乾漆像]]></category>
		<category><![CDATA[六国史]]></category>
		<category><![CDATA[南都六宗]]></category>
		<category><![CDATA[現世利益]]></category>
		<category><![CDATA[神仏習合]]></category>
		<category><![CDATA[行基]]></category>
		<category><![CDATA[鎮護国家]]></category>
		<category><![CDATA[鑑真]]></category>

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		<description><![CDATA[天平文化について考えてみます &#160; &#160; ・天平文化の特徴について &#160; 　・天平文化とは 　　→・奈良時代は、中央集権的な国家の仕組みが出来て、富が中央に集まるようになった 　　　・平城京を中心 [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1121">天平文化について　－様々な書物・思想と美術－</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>天平文化について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・天平文化の特徴について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・天平文化とは</p>
<p>　　→・奈良時代は、中央集権的な国家の仕組みが出来て、富が中央に集まるようになった</p>
<p>　　　・平城京を中心として、クオリティの高い貴族の文化が誕生した</p>
<p>　　　　＝この時代のことを、聖武天皇の時代の年号を取って、天平文化と名づけられた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・天平文化の特徴</p>
<p>　　・遣唐使によって唐の進んだ文化が日本に入ってきて、当時の貴族は唐の文化を重視した</p>
<p>　　　→そのため天平文化は、唐の文化の影響を強く受けた国際色豊かな文化だった</p>
<p>　　　　という特徴があると言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・仏教国家の流れについて</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・奈良時代は、仏教が国家の保護を受けて発展し、鎮護国家の思想が生まれた</p>
<p>　　※鎮護国家・・仏によって、国家を落ち着かせようとする考え方のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　→鎮護国家の思想によって、聖武天皇が国分寺の建立や大仏の造立などを行ったが、</p>
<p>　　　　このような動きは、国家の財政への大きな負担になったと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・仏教が日本で広まる時に、仏教が現世利益を求めるための手段とされた</p>
<p>　　※現世利益・・現在の世の中で受ける神や仏からの恵みのこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・神仏習合という思想が出てきた</p>
<p>　　※神仏習合・・神と仏は本来は同じであるという考え方のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・仏教が政治に組み込まれることを嫌って、大寺院を離れて</p>
<p>　　山にこもって修行する僧が出てきた</p>
<p>　　→この僧たちの動きが、平安時代の仏教の土台になったと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・奈良の大寺院というところでは、様々な仏教の理論の研究が進められた</p>
<p>　　→その中で、南都六宗（三論、成実、法相、倶舎、華厳、律をまとめた呼び方）</p>
<p>　　　という枠組みが出来た</p>
<p>　　　※法相宗の義淵という人が大量の門下生を育て、華厳宗の良弁という人が</p>
<p>　　　　唐や新羅の僧から華厳を学んだ</p>
<p>　　　　＝この動きが、東大寺建立に影響を与えたと言われている</p>
<p>　　　</p>
<p>　・当時は、道慈や行基と呼ばれる人達が様々な場面で活躍した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　※当時の僧侶は、宗教のだけでなく、最新の文明も知っていたという、</p>
<p>　　素晴らしい知識人だった</p>
<p>　　→そのため、玄昉のように、政治で活躍した僧侶もいた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・当時活躍した人の一人に、唐の出身の鑑真という人がいる</p>
<p>　　※鑑真について</p>
<p>　　　・日本への渡航に何回か失敗しながらも、最終的に日本に戒律というものを伝えた</p>
<p>　　　・渡航の失敗などが原因で、最終的に鑑真は盲目になってしまった</p>
<p>　　　・鑑真は、唐招提寺という寺を作った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・仏教は、政府に統制された、という一面もある</p>
<p>　　→そのため、一般的に僧侶の活動は寺院の中だけ、というように限られていた</p>
<p>　　　※ただし、行基のように、人々に仏教を広めながら、用水施設を作るような</p>
<p>　　　　社会的な事業を行い、国家から取締りを受けつつも多くの人々に支持された僧もいた</p>
<p>　　　　</p>
<p>　　　※・行基は大僧正に任命されて、大仏造りに参加した　　</p>
<p>　　　　・社会事業を行うことは、仏教思想とつながっている</p>
<p>　　　　　＝そのため、光明皇后という人が平城京に悲田院（孤児や病人の収容施設）を作ったり、</p>
<p>　　　　　　施薬院（医療に関する施設）を作ったりしたことも</p>
<p>　　　　　　仏教思想とつながっていると言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・「古事記」「日本書紀」「風土記」「万葉集」について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・日本では、国史（国の歴史をまとめたもの）の編纂が行われるようになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・国史の編纂は、天武天皇の時に始められ、「古事記」「日本書紀」として完成した</p>
<p>　　</p>
<p>　　※「古事記」と「日本書紀」について</p>
<p>　　　</p>
<p>　　　・古事記（７１２年に完成）</p>
<p>　　　　→・「帝紀」と「旧辞」をもとにして、稗田阿礼という人が読んだ内容を、</p>
<p>　　　　　　太安万侶という人が筆録したもの</p>
<p>　　　　　・神話などから、推古天皇までの物語が書いてある</p>
<p>　　　　　・漢字の音と訓を使って書いてある</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　・日本書紀（７２０年に完成）</p>
<p>　　　　→・舎人親王という人が中心になって編纂したもの</p>
<p>　　　　　・神の時代から持統天皇までの歴史を、天皇を中心にして書いてある</p>
<p>　　　　　・漢文の編年体というスタイルで書かれている</p>
<p>　　　　　※日本書紀の後に、「続日本紀」「日本後紀」「続日本後紀」</p>
<p>　　　　　　「日本文徳天皇実録」「日本三代実録」というものが編纂された</p>
<p>　　　　　　＝これらを、日本書紀を合わせて六国史と言う</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・古事記と日本書紀を作ると同時に、「風土記」というものが７１３年に作られた</p>
<p>　　※風土記・・それぞれの国の郷土の産品や、山川などの名前の由来をまとめた地誌のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・当時、貴族や官人に漢詩文の能力が必要だと考えられ、</p>
<p>　　７５１年に「懐風藻」という漢詩集が作られた</p>
<p>　　※懐風藻・・大友皇子や長屋王など、７世紀後半以降の漢詩をおさめた、</p>
<p>　　　　　　　　現存最古の漢詩集のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※８世紀半ばからの漢詩文の代表的な人に、淡海三船や石上宅嗣などがいる</p>
<p>　　　→石上宅嗣は、現在の図書館のような施設を作って、</p>
<p>　　　　学問を行う人達のために開放したと言われている</p>
<p>　　　　＝石上宅嗣が図書館のような施設のことを芸亭と言う</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・日本に昔から存在する和歌というものが、様々な人によって読まれた</p>
<p>　　→そこで、７５９年に「万葉集」というものが作られた</p>
<p>　　　※万葉集・・約４５００首を収めた歌集のこと</p>
<p>　　　　　　　　　　→万葉集には、東国の人たちが歌った東歌や、</p>
<p>　　　　　　　　　　　防人が歌った防人歌なども入っている</p>
<p>　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・教育施設として、官吏を要請するために、中央に大学、地方に国学という施設を作った</p>
<p>　　※入学は、大学は貴族の子弟や朝廷で文章を書いた人が、国学は郡司の子弟が優先された</p>
<p>　　　→大学や国学で勉強する人は、卒業して、試験を受けて合格することで官人になれた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※大学にはどのような教科があったのか</p>
<p>　　　→明経道、明法道、諸道、紀伝道などがあった</p>
<p>　　　　・明経道・・「論語」などのような儒教の経典を勉強する</p>
<p>　　　　・明法道・・律令などの法律を勉強する</p>
<p>　　　　・諸道・・書、算などを勉強する</p>
<p>　　　　・紀伝道・・漢文や歴史を勉強する</p>
<p>　　　　　※その他に、陰陽、天文、医、暦なども勉強していたと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・天平文化の時の美術について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・建築の美術について</p>
<p>　　</p>
<p>　　・寺院や宮殿に礎石や瓦を使った建物が造られた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・代表的なものに、法隆寺伝法堂、唐招提寺講堂、東大寺法華堂、唐招提寺金堂、</p>
<p>　　　正倉院宝庫などがある</p>
<p>　　　→これらは、どれも均整が取れていると言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　</p>
<p>　・彫刻の美術について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・表情豊かで調和が取れている仏像が多いと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・木像や金堂像に加えて、塑像や乾漆像などが作られるようになった</p>
<p>　　　※・塑像・・木を芯にして、その木に粘土を塗り固めた像のこと</p>
<p>　　　　　　　　　　　→代表的なものに、東大寺法華堂の日光・月光菩薩や執金剛神像などがある</p>
<p>　　　　・乾漆像・・原型を最初に作って、原型の上に麻布を何重にもして、</p>
<p>　　　　　　　　　　漆で塗り固めて、後で原型を抜き取る像のこと</p>
<p>　　　　　　　　　　→代表的なものに、東大寺法華堂の不空羂索観音像、</p>
<p>　　　　　　　　　　　興福寺の釈迦十大弟子像、八部衆像などがある</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>　・絵画の美術について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・代表的なものに、正倉院にある鳥毛立女屏風の樹下美人図、</p>
<p>　　　薬師寺にある吉祥天像などがある</p>
<p>　　　→これらは、唐の影響を受けていて、豊満かつ華麗だと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・その他の代表的なものとして、過去現在絵因果経というものがある</p>
<p>　　　→これは、釈迦の一生を描いたものとして、後の絵巻物の基礎になったと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・工芸品の美術について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・代表的なものに、正倉院宝物がある</p>
<p>　　　→聖武天皇が亡くなった後に、光明皇太后が様々な品を保存していたため、</p>
<p>　　　　服や楽器など、多くの品がある</p>
<p>　　</p>
<p>　　・その他に、螺鈿紫檀五絃琵琶というものがある</p>
<p>　　　→この工芸品から、唐だけでなく西アジアや南アジアとも交流していたことがわかる</p>
<p>　　　　＝当時の宮廷での生活の文化レベルが高かったこと、国際的だったことなどが考えられる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・また、百万塔とその中に納められている百万塔陀羅尼も、素晴らしい作品だと言われている</p>
<p>　　　※百万塔陀羅尼は、世界最古の現存している印刷物だと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・天平文化の特徴と流れについて押さえる</p>
<p>・古事記、日本書紀、風土記、万葉集、教育機関などを押さえる</p>
<p>・天平文化の美術を押さえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p>
<p>&nbsp;</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1121">天平文化について　－様々な書物・思想と美術－</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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	</item>
		<item>
		<title>藤原氏の行動について　－藤原氏の進出と活躍－</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1118</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1118#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 21 Oct 2013 14:55:17 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[足利]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[奈良時代]]></category>
		<category><![CDATA[光仁天皇]]></category>
		<category><![CDATA[和気清麻呂]]></category>
		<category><![CDATA[国分寺建立の詔]]></category>
		<category><![CDATA[恵美押勝の乱]]></category>
		<category><![CDATA[文武天皇]]></category>
		<category><![CDATA[橘奈良麻呂の変]]></category>
		<category><![CDATA[橘諸兄]]></category>
		<category><![CDATA[藤原広嗣の乱]]></category>
		<category><![CDATA[鎮護国家]]></category>
		<category><![CDATA[長屋王]]></category>

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		<description><![CDATA[藤原氏の動きについて考えてみます &#160; &#160; ・藤原氏と政界の動きについて &#160; &#160; 　・８世紀の初めころに、藤原不比等という人が中心になって律令制度の完成に向けて動いていた 　　→結果 [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1118">藤原氏の行動について　－藤原氏の進出と活躍－</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>藤原氏の動きについて考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・藤原氏と政界の動きについて</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・８世紀の初めころに、藤原不比等という人が中心になって律令制度の完成に向けて動いていた</p>
<p>　　→結果的に藤原氏が政治に進出するようになると、大伴氏などの昔から力のあった勢力は</p>
<p>　　　弱くなっていった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・藤原不比等は、自分の娘である宮子を文武天皇という人と結婚させて、</p>
<p>　　その２人の子ども（後で聖武天皇になる）と、自分の娘である光明子を結婚させた</p>
<p>　　　→自分の娘たちを天皇の人たちと結婚させることで、</p>
<p>　　　　藤原氏と天皇との密接な関係を作ることを狙った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・不比等が死んだ後に、長屋王という人が右大臣になって、政治をコントロールした</p>
<p>　　→その時に、藤原氏の権力が危なくなったので、</p>
<p>　　　不比等の４兄弟の子供たち（武智麻呂、房前、宇合、麻呂）は</p>
<p>　　　藤原氏の権力を維持するために長屋王を自殺させた</p>
<p>　　　＝この出来事を、長屋王の変と言う</p>
<p>　　　　　→この出来事によって、光明子を皇后にすることが出来た</p>
<p>　　　　　　※しかし、天然痘という病気が流行して、４兄弟がどんどん死んでいったため、</p>
<p>　　　　　　　また藤原氏の勢力が弱くなった</p>
<p>　　　　　　　→この流れによって、橘諸兄という人が政治をコントロールするようになった</p>
<p>　　　　　　　　＝その時に、玄昉と吉備真備が聖武天皇に期待されて活躍した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・７４０年に、藤原広嗣という人が、玄昉と吉備真備を辞めさせることを目指して、</p>
<p>　　北九州で反乱を起こした</p>
<p>　　＝この出来事を藤原広嗣の乱という</p>
<p>　　　→この乱は、結局鎮圧されてしまった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※藤原広嗣の乱が起きてから数年の間、聖武天皇は恭仁、難波、紫香楽などに</p>
<p>　　　　都をどんどん移していった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　→以上のように、政治の状況が混乱したり、病気や飢饉が広がったりした、ということがあった</p>
<p>　　＝そこで、聖武天皇は仏教を深く信仰していたため、鎮護国家という考え方で</p>
<p>　　　国が安定することを目指そうとした</p>
<p>　　　※鎮護国家・・仏によって、国家を落ち着かせようとする考え方のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→鎮護国家のために、以下のようなことを行った</p>
<p>　　　・７４１年に国分寺建立の詔というものを出して、様々な国に</p>
<p>　　　　国分寺や国分尼寺を作らせた</p>
<p>　　　・７４３年に近江の紫香楽宮というところで、大仏造立の詔というものを出した</p>
<p>　　　　※７４５年に平城京に戻ったが、大仏造立は奈良でも続けられた</p>
<p>　　　・７５２年の、孝謙天皇（聖武天皇の娘）の時に、大仏の開眼供養という儀式が行われた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>　・孝謙天皇の時代に、藤原仲麻呂という人が光明皇太后（光明子）という人と手を組んで、</p>
<p>　　政治の世界で勢力を伸ばした</p>
<p>　　→橘奈良麻呂（橘諸兄の子）という人が、藤原仲麻呂を倒そうとしたが、</p>
<p>　　　逆に藤原仲麻呂に倒されてしまった</p>
<p>　　　＝この戦いのことを、橘奈良麻呂の変と言う</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・藤原仲麻呂は、淳仁天皇という人を擁護して、天皇に就かせた</p>
<p>　　→その時に藤原仲麻呂は、淳仁天皇から恵美押勝という名前をもらって、</p>
<p>　　　大量の経済的な権利を得ると同時に、様々な権力自体を独占して、</p>
<p>　　　結果的に藤原仲麻呂は太政大臣にまでなった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・恵美押勝は、手を組んでいた光明皇太后が亡くなると、孤立してしまった</p>
<p>　　→さらに、孝謙太政天皇（孝謙天皇）は、自分の看病をしてくれた</p>
<p>　　　僧の道鏡をかわいがり、淳仁天皇と対立した</p>
<p>　　→そこで、淳仁天皇と恵美押勝の側が危機感を抱いたので、孝謙天皇と戦った</p>
<p>　　　＝この戦いのことを恵美押勝の乱と言う</p>
<p>　　　　※恵美押勝の乱では、孝謙天皇の側が勝った</p>
<p>　　　　　→結果的に淳仁天皇は淡路に流されたので、孝謙天皇がもう一度天皇の</p>
<p>　　　　　　地位につき、称徳天皇になった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・道鏡は、称徳天皇の力によって、太政大臣禅師と法王という地位になり、権力を握って、</p>
<p>　　仏教の政治を行った</p>
<p>　　</p>
<p>　　※７６９年に称徳天皇が道鏡に自分の地位を渡そうとしたが、</p>
<p>　　　和気清麻呂という人の行動によって、渡されなかった</p>
<p>　　　→九州の宇佐八幡神という神が、道鏡が天皇になるお告げをしたが、</p>
<p>　　　　その神の意見を聞く人になった和気清麻呂は、お告げと反対の報告をして、</p>
<p>　　　　道鏡に即位させないようにした</p>
<p>　　　　※この行動の背景には、道鏡に反対する人達がいたからだと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　＝結局、称徳天皇が亡くなった後に、道鏡は外されることになった</p>
<p>　　　　※道鏡は、追放され、そこで死んだ</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・次の天皇には、光仁天皇（天智天皇の孫）が任命された</p>
<p>　　→光仁天皇の時代には、道鏡の仏教政治が原因で混乱してしまった政治と財政を</p>
<p>　　　立て直すことを目指した</p>
<p>　　　※光仁天皇が即位した背景には、藤原式家の藤原百川などの人達が動いた、</p>
<p>　　　　ということがある</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・藤原氏と政界の動きを押さえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1118">藤原氏の行動について　－藤原氏の進出と活躍－</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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