天平文化について -様々な書物・思想と美術-
天平文化について考えてみます
・天平文化の特徴について
・天平文化とは
→・奈良時代は、中央集権的な国家の仕組みが出来て、富が中央に集まるようになった
・平城京を中心として、クオリティの高い貴族の文化が誕生した
=この時代のことを、聖武天皇の時代の年号を取って、天平文化と名づけられた
・天平文化の特徴
・遣唐使によって唐の進んだ文化が日本に入ってきて、当時の貴族は唐の文化を重視した
→そのため天平文化は、唐の文化の影響を強く受けた国際色豊かな文化だった
という特徴があると言われている
・仏教国家の流れについて
・奈良時代は、仏教が国家の保護を受けて発展し、鎮護国家の思想が生まれた
※鎮護国家・・仏によって、国家を落ち着かせようとする考え方のこと
→鎮護国家の思想によって、聖武天皇が国分寺の建立や大仏の造立などを行ったが、
このような動きは、国家の財政への大きな負担になったと言われている
・仏教が日本で広まる時に、仏教が現世利益を求めるための手段とされた
※現世利益・・現在の世の中で受ける神や仏からの恵みのこと
・神仏習合という思想が出てきた
※神仏習合・・神と仏は本来は同じであるという考え方のこと
・仏教が政治に組み込まれることを嫌って、大寺院を離れて
山にこもって修行する僧が出てきた
→この僧たちの動きが、平安時代の仏教の土台になったと言われている
・奈良の大寺院というところでは、様々な仏教の理論の研究が進められた
→その中で、南都六宗(三論、成実、法相、倶舎、華厳、律をまとめた呼び方)
という枠組みが出来た
※法相宗の義淵という人が大量の門下生を育て、華厳宗の良弁という人が
唐や新羅の僧から華厳を学んだ
=この動きが、東大寺建立に影響を与えたと言われている
・当時は、道慈や行基と呼ばれる人達が様々な場面で活躍した
※当時の僧侶は、宗教のだけでなく、最新の文明も知っていたという、
素晴らしい知識人だった
→そのため、玄昉のように、政治で活躍した僧侶もいた
・当時活躍した人の一人に、唐の出身の鑑真という人がいる
※鑑真について
・日本への渡航に何回か失敗しながらも、最終的に日本に戒律というものを伝えた
・渡航の失敗などが原因で、最終的に鑑真は盲目になってしまった
・鑑真は、唐招提寺という寺を作った
・仏教は、政府に統制された、という一面もある
→そのため、一般的に僧侶の活動は寺院の中だけ、というように限られていた
※ただし、行基のように、人々に仏教を広めながら、用水施設を作るような
社会的な事業を行い、国家から取締りを受けつつも多くの人々に支持された僧もいた
※・行基は大僧正に任命されて、大仏造りに参加した
・社会事業を行うことは、仏教思想とつながっている
=そのため、光明皇后という人が平城京に悲田院(孤児や病人の収容施設)を作ったり、
施薬院(医療に関する施設)を作ったりしたことも
仏教思想とつながっていると言われている
・「古事記」「日本書紀」「風土記」「万葉集」について
・日本では、国史(国の歴史をまとめたもの)の編纂が行われるようになった
・国史の編纂は、天武天皇の時に始められ、「古事記」「日本書紀」として完成した
※「古事記」と「日本書紀」について
・古事記(712年に完成)
→・「帝紀」と「旧辞」をもとにして、稗田阿礼という人が読んだ内容を、
太安万侶という人が筆録したもの
・神話などから、推古天皇までの物語が書いてある
・漢字の音と訓を使って書いてある
・日本書紀(720年に完成)
→・舎人親王という人が中心になって編纂したもの
・神の時代から持統天皇までの歴史を、天皇を中心にして書いてある
・漢文の編年体というスタイルで書かれている
※日本書紀の後に、「続日本紀」「日本後紀」「続日本後紀」
「日本文徳天皇実録」「日本三代実録」というものが編纂された
=これらを、日本書紀を合わせて六国史と言う
・古事記と日本書紀を作ると同時に、「風土記」というものが713年に作られた
※風土記・・それぞれの国の郷土の産品や、山川などの名前の由来をまとめた地誌のこと
・当時、貴族や官人に漢詩文の能力が必要だと考えられ、
751年に「懐風藻」という漢詩集が作られた
※懐風藻・・大友皇子や長屋王など、7世紀後半以降の漢詩をおさめた、
現存最古の漢詩集のこと
※8世紀半ばからの漢詩文の代表的な人に、淡海三船や石上宅嗣などがいる
→石上宅嗣は、現在の図書館のような施設を作って、
学問を行う人達のために開放したと言われている
=石上宅嗣が図書館のような施設のことを芸亭と言う
・日本に昔から存在する和歌というものが、様々な人によって読まれた
→そこで、759年に「万葉集」というものが作られた
※万葉集・・約4500首を収めた歌集のこと
→万葉集には、東国の人たちが歌った東歌や、
防人が歌った防人歌なども入っている
・教育施設として、官吏を要請するために、中央に大学、地方に国学という施設を作った
※入学は、大学は貴族の子弟や朝廷で文章を書いた人が、国学は郡司の子弟が優先された
→大学や国学で勉強する人は、卒業して、試験を受けて合格することで官人になれた
※大学にはどのような教科があったのか
→明経道、明法道、諸道、紀伝道などがあった
・明経道・・「論語」などのような儒教の経典を勉強する
・明法道・・律令などの法律を勉強する
・諸道・・書、算などを勉強する
・紀伝道・・漢文や歴史を勉強する
※その他に、陰陽、天文、医、暦なども勉強していたと言われている
・天平文化の時の美術について
・建築の美術について
・寺院や宮殿に礎石や瓦を使った建物が造られた
・代表的なものに、法隆寺伝法堂、唐招提寺講堂、東大寺法華堂、唐招提寺金堂、
正倉院宝庫などがある
→これらは、どれも均整が取れていると言われている
・彫刻の美術について
・表情豊かで調和が取れている仏像が多いと言われている
・木像や金堂像に加えて、塑像や乾漆像などが作られるようになった
※・塑像・・木を芯にして、その木に粘土を塗り固めた像のこと
→代表的なものに、東大寺法華堂の日光・月光菩薩や執金剛神像などがある
・乾漆像・・原型を最初に作って、原型の上に麻布を何重にもして、
漆で塗り固めて、後で原型を抜き取る像のこと
→代表的なものに、東大寺法華堂の不空羂索観音像、
興福寺の釈迦十大弟子像、八部衆像などがある
・絵画の美術について
・代表的なものに、正倉院にある鳥毛立女屏風の樹下美人図、
薬師寺にある吉祥天像などがある
→これらは、唐の影響を受けていて、豊満かつ華麗だと言われている
・その他の代表的なものとして、過去現在絵因果経というものがある
→これは、釈迦の一生を描いたものとして、後の絵巻物の基礎になったと言われている
・工芸品の美術について
・代表的なものに、正倉院宝物がある
→聖武天皇が亡くなった後に、光明皇太后が様々な品を保存していたため、
服や楽器など、多くの品がある
・その他に、螺鈿紫檀五絃琵琶というものがある
→この工芸品から、唐だけでなく西アジアや南アジアとも交流していたことがわかる
=当時の宮廷での生活の文化レベルが高かったこと、国際的だったことなどが考えられる
・また、百万塔とその中に納められている百万塔陀羅尼も、素晴らしい作品だと言われている
※百万塔陀羅尼は、世界最古の現存している印刷物だと言われている
ポイント
・天平文化の特徴と流れについて押さえる
・古事記、日本書紀、風土記、万葉集、教育機関などを押さえる
・天平文化の美術を押さえる
このあたりが今回のポイントです
コメント
安土桃山末期、江戸初めの1604年に、ポルトガル人のジョアン・ロドリゲスが、日本に布教に来て30年ほど滞在し、作ったのが「日本大文典」という印刷書籍です。400年前の広辞苑ほどもあるような大部で驚きます、秀吉の知遇、さらに家康の外交顧問もしていました。当時、スペイン国王からはメキシコに帰る難破船救助のお礼に、「家康公の時計」をもらっています。古代から伝えられてきた日本の歴史について知ることができる タイムカプセル でしょうか。戦国時代直後まで伝えられてきた古代史で、倭国年号が522年善記から大宝まで記載され、続いて慶雲以後の大倭年号が続きます。日本大文典の倭国年号の存在は、ウィキなどにも記載されていません、「日本大文典」の実物を手にとって見てください、感動すること間違いありません。 宜しくお願いします。