アフリカの植民地化と植民地に対する各国の動きについて
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アフリカの植民地化の動きについて考えてみます
・アフリカの植民地化の動きについて
・19世紀の前半、ヨーロッパ人のアフリカに関する知識は、北部とインド航路の港など
アフリカ沿岸部に限られていた
・19世紀のなかば、リヴィングストンやスタンリーという人などが
中央アフリカを探検して事情を伝えた
→その後、列強の国々がこの地域に関心を示すようになった
・1880年代の初めに、コンゴ地域をめぐってヨーロッパ国々の間で対立が起こった
→すると、ドイツのビスマルクは1884~1885年に
ベルリン会議(ベルリン=コンゴ会議)を開いた
=この会議で以下のようなことを決めた
・ベルギー国王の所有地としてコンゴ自由国の設立を認めた
・アフリカの植民地化の原則を決めた
→ベルリン会議の後、列強に殺到し、すぐにアフリカの大部分を分割することになった
※現地の人々は、地域の自立や固有の文化を守ろうとして抵抗した
=このような抵抗運動は、民族主義運動や民族解放運動となり、
20世紀の歴史的な大きな流れの一つになった
・植民地に対する各国の動きについて
・イギリスでは、1880年代の初めに、ウラービー運動を武力で制圧して、
エジプトを事実上保護下にした
・イギリスは、スーダンにも侵入した
→スーダンでは、マフディー派というのが抵抗して、ゴードンが指揮したイギリス軍を
ハルツームというところで一時的に侵入を阻止したものの、
1889年に征服されてしまった
・アフリカ南部では、セシル=ローズという人の指導で、ケープ植民地から周辺に
侵攻する政策がとられた
→1899年には、ブール人と南アフリカ戦争を起こした
=その結果、トランスヴァールとオレンジの両方の国を併合した
・イギリスは、ケープタウンとカイロをつないで、その2つをインドのカルカッタと結びつけた
=この政策を3C政策という
・フランスでは、1881年にチュニジアを保護国にした
→その後、サハラ砂漠地域をおさえ、アフリカを横断して
ジブチやマダガスカルとつなげようとした
※この計画が、イギリスの縦断政策とぶつかってしまい、
1898年にファショダ事件という出来事が起きた
=この事件は、フランスが譲歩することで解決した
・ファショダ事件の後、フランスとイギリスが接近した
=その結果、1904年に英仏協商を成立させた
→ここで、以下のような動きを見せた
・エジプトにおけるイギリスの支配的地位を認めた
・モロッコにおけるフランスの支配的地位を認めた
・ドイツに対抗した
・ドイツでは、1880年代なかばに、カメルーン、南西アフリカ、東アフリカなどの
植民地を得た
※しかし、どの植民地も経済的な価値は低かった
→そこでドイツは、20世紀に入って新しい植民地の獲得のために、
1905年と1911年の2回にわたって
フランスのモロッコ支配に対抗するという出来事を起こした
=この出来事をモロッコ事件という
→しかし、モロッコ事件は2回ともイギリスがフランスを支援したために失敗となった
=結果的に、1912年にモロッコがフランスの保護国になった
※モロッコ事件について
・第1次は、フランスのモロッコ進出に抗議して、ヴィルヘルム2世が
モロッコのタンジールに上陸して、列国会議を要求した事件のこと
→1906年のアルヘシラス国際会議で、ドイツの要求はしりぞけられた
・第2次は、ドイツが砲艦をアガディールに派遣して、フランスを牽制した事件のこと
→この時、ドイツにはフランス領コンゴの一部が与えられた
・イタリアは、1880年代にソマリランドとエリトリアを獲得して、エチオピアに侵入した
※しかし、イタリアは1896年にアドワの戦いで負けて、イタリアは後退した
・しかし、1911~1912年にイタリアは、イタリア=トルコ戦争を起こした
=この戦争の結果、オスマン帝国からリビア(トリポリ、キレナイカ)を奪った
→以上のような動きを受けて、20世紀の初めには、アフリカ全土が、
エチオピア帝国とリベリア共和国以外が、列強の支配下に置かれることになった
※リベリア共和国・・アメリカ植民協会が、解放された黒人奴隷を入植させて、
1847年に独立させた共和国のこと
→列強は、原料や資源の獲得、商品市場などの経済的な利害、戦略基地設置などの関心などから
意図的に境界線を定めた
※この動きは、現地の人々のつながりや交易網を破壊することにつながった
=そのため、それ以降の住民の自立や独立に大きな障害となったと言われている
ポイント
・アフリカの植民地化の動きについておさえる
・植民地に対する各国の動きについておさえる
このあたりが今回のポイントです