第一次世界大戦後の西ヨーロッパ諸国の停滞について
戦後の西ヨーロッパ諸国の停滞について考えてみます
・戦後の西ヨーロッパ諸国の停滞の様子について
・イギリスとフランスは、戦後に海外の領土を増やした
→しかし、戦争で受けた経済的なダメージから回復することが出来ず、
経済面での不況で苦しんだ
・イギリスについて
・1918年の第4回選挙法改正によって、21歳以上の男性と30歳以上の女性に
選挙権が拡大された
・1928年の第5回選挙法改正によって、21歳以上の男女に選挙権が認められた
・戦後は、自由党に代わって労働党が保守党の次の地位となる第二党になった
→1924年には、労働党の党首だったマクドナルドという人が自由党と連立内閣を作った
※この連立内閣は短命に終わってしまった
=しかし、結果的に1929年の選挙で労働党が初めて第一党になり、
マクドナルドが再び政権についた
・アイルランドについて
・1922年に、北部のアルスター以外が、アイルランド自由国として自治領になった
・1926年と1930年のイギリス帝国会議の決議によって、
1931年にウェストミンスター憲章が成立した
→この結果、各自治領はイギリス連邦の一員として、
王冠への忠誠のもとにイギリスと対等の地位を得た
※しかし、アイルランドの独立派は1937年に王冠への忠誠宣言を廃止した
=その結果、独自の憲法を作り、エールを国名として事実上連邦を離脱した
・フランスについて
・フランスは、国土が戦場になっていて、戦後もドイツが強国化することを恐れていた
→そのためフランスは、ドイツに課されたヴェルサイユ条約(特に賠償金の支払い)を
厳しく要求した
※ポワンカレ右派内閣の時は、支払い不履行を理由にルール占領を強行した
→しかし、ドイツとの強硬外交は国際的な批判を浴びて失敗した
=そこで、1924年に左派連合政権が誕生した
※1925年に外相となったブリアンは、ドイツとの和解をめざし、国際協調に貢献した
・ドイツについて
・ドイツでは、戦争の直後からドイツ共産党などの革命推進勢力と社会民主党とが対立した
→そこで、社会民主党は、軍部などの保守勢力と手を組んで、
1919年の初めに共産党をおさえこんだ
※ドイツ共産党は、反戦をかかげて社会民主党最左派が組織したスパルタクス派を
中心に戦後結成された
※共産党指導者のローザ=ルクセンブルクとカール=リープクネヒトは、
1919年の初めに殺害された
・ヴァイマルというところで開かれた国民議会では、社会民主党のエーベルトという人が
大統領に選ばれた
→この時に、民主的な憲法が制定されて、共和国の基礎が作られた
=この時の憲法をヴァイマル憲法、この時の共和国をヴァイマル共和国という
※しかし、賠償の支払いと帝政派や右翼による反共和国活動などによって、
経済と政治が不安定だった
※特に、1923年のフランスのルール占領に対しては、不服従運動で抵抗したために
生産が低下した
=そのためドイツで、激しいインフレーションが進んだ
・1923年の夏に、首相になったシュトレーゼマンという人が、以下のようなことを行った
→・レンテンマルクというのを発行して、インフレーションを克服した
・アメリカ合衆国の協力で、賠償の支払いの緩和と資本の導入に成功した
=結果的に、経済を立て直し、国際協調外交を推進した
※ドイツの賠償の支払いの緩和と資本の導入について
・各国経済界の専門家の提案(ドーズ案)を受けて、連合国はドイツの賠償金の
支払い額を当面の間軽減し、アメリカの資本によるドイツの経済復興を決めた
・1929年に、総額を減らし、支払期間も延長した最終支払案(ヤング案)が
決定された
・1932年のローザンヌ会議で賠償総額が30億金マルクに減額された
・しかし、ナチス=ドイツは賠償金自体を否定した
・1925年にエーベルトが死ぬと、第一次世界大戦後期の陸軍参謀総長だった
ヒンデンブルクという人が大統領に選ばれた
・1929年まで外相を担当したシュトレーゼマンは、国際連盟の加盟を実現した
・しかし、ドイツ国内の経済が安定しないうちに、1929年に世界恐慌が起きた
→そのため、ドイツ国内の経済が壊滅的になった
=結果的に、国民生活や議会政治が混乱してしまった
ポイント
・戦後の西ヨーロッパの停滞の概要についておさえる
・当時のイギリスについておさえる
・当時のアイルランドについておさえる
・当時のフランスについておさえる
・当時のドイツについておさえる
このあたりが今回のポイントです