三国防共協定について
三国防共協定について考えてみます
・三国防共協定について
※ベルサイユ体制とワシントン体制という第一次世界大戦後の世界秩序を維持するためには
以下の2つの条件が必要だったと言われている
→・世界経済の調子が良く、規模が拡大していること
・平和維持の価値が認められていること
→しかし、世界恐慌が起きたため、世界経済の調子が良いとは言えなくなってしまった
・日本が満州事変を行ってワシントン体制を揺るがしているころに、
ドイツとイタリアが以下のような行動を取った
・ドイツ
→・1933年に全体主義体制(ナチズム)を作った
・ベルサイユ体制を崩すことを考えて、国際連盟から抜けた
・1935年に、今まで禁止されていた武装を再び行うようになった
・イタリア
→・一党独裁の体制(ファシズム)が作られた
・1935年にエチオピアという国への侵略をきっかけに、
国際連盟と対立するようになった
・1936年に、スペインで内乱が起きた
→この時に、ドイツとイタリアが友好関係を深め、
ベルリン=ローマ枢軸という枢軸を作った
※枢軸・・世界の中心となるべき国々の協力関係のこと
・ソ連が、1928年~1932年の間に第1次5ヵ年計画という計画を立てた
→この計画によって、重工業の推進と、農業の集団化の推進を行った
=その結果、ソ連の国力が急激に高まった
・さらに、ソ連は以下のような動きが起きた
→・1933年に、アメリカがソ連を承認した
・1935年に、ソ連が国際連盟に加入した
→このようにして、国際社会の中でソ連の役割が大きくなっていった
・上のような状況で、当時、ソ連を中心とした国際的な共産主義の運動が起きていた
→そこで、広田弘毅内閣は共産主義の運動に対抗するために、
1936年に日本とドイツとの間で、日独防共協定という協定を結んだ
→日独防共協定に、次の年の1937年にイタリアが参加した
=日本、ドイツ、イタリアの3国が組んだこの協定のことを、
日独伊三国防共協定という
※この協定に参加した後に、イタリアは国際連盟を脱退した
→このようにして、国際的に孤立していった日本・ドイツ・イタリアの3国が
ソ連に反対する立場で結束して、枢軸としての陣営が誕生した
ポイント
・三国防共協定を中心に当時の様子を押さえる
このあたりが今回のポイントです