戦時のための統制と人々の生活について

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投稿者:       投稿日時:2013/10/28 17:48      
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戦争のための統制と人々の生活について考えてみます

 

 

・戦争のための統制と人々の生活について

 

 

 ・広田弘毅内閣は大軍備拡張予算というのがきっかけで、

  財政が軍事支出を中心に増えて行った

  →さらに、この時に軍需に関する物資を大量に輸入したため、

   国際収支にも影響を与えるようになった

 

 

 ・日中戦争が始まってから、第1次近衛文麿内閣がさらに大量の金額の軍事予算を

  作ると同時に、直接的な経済の統制を行った

  →その時に、臨時資金調達法や輸出入品等臨時措置法などの法律を作った

   =これらの法律を作ることで、軍需産業に資金や輸入した材料を集中して

    投入することにした

 

 

 ・経済統制が進む状況で、経済に関係する官僚が進出するようになった

  →このような官僚は、軍部と手を組んで国防国家を作ろうとする動きが

   見られるようになった

 

 

 ・戦争が進むにつれて、軍事費が毎年急激に増加した

  →このような財政支出によって、増税が行われるようになったものの、

   財政の支出をカバーすることが出来なかった

  →そこで、大量の赤字公債(借金)が作られ、借金の返済のために大量の紙幣が作られた

   =そのため、インフレーションが進んでいった

 

 

 

 

 ・1938年4月に国家総動員法という法律が作られた

  →この法律によって、政府は議会の承認が無くても、戦争に必要な物資や労働力を

   動かすことが出来るようになった

   ※この法律によって、政府が人々の生活をほとんどコントロールできるようになった

 

 ・国家総動員法と同じ時に、電力国家管理法という法律が作られた

  →この法律によって、民間の電力会社を一つの国営の会社に統合することになった

   ※この法律は、政府が民間企業への介入を進めるきっかけになったと言われている

 

 ・1939年に、国家総動員法をもとにして、国民徴用令という法律が出された

  →この法律によって、一般の国民が軍需産業で働かされるようになった

 

 

 ・1938年から企画院というところで物資をどうするかという計画が作られた

  =その計画の結果、軍需品が優先的に作られることになった

   ※企画院・・戦時中の動員についての計画、立案、調整などを行う

         内閣直属の機関のこと

    →ただし、企画院は経済界から反対されて、1943年に出来た

     軍需省というところに吸収された

 

 

 ・上のような状況だったので、重化学工業が中心だった当時の新興財閥だけでなく、

  今まであった財閥も積極的に軍需品を作り始め、

  国の政策に協力する形でものすごい利益を出した

 

 

 ・当時は、総力戦を意識した生産力の拡充計画も考えられた

  ※しかし、軍需の生産に必死で、計画を実行することはできなかった

 

 

 ・機械や鉄以外の金属の生産は、1944年までは軍需を中心にして上昇し続けた

  →しかし、原材料の品質の低下、高性能な機械の輸入の途絶え、

   日本が大量生産の経験値が不足していたことなどが理由になって、

   一定の品質を保った生産が出来ないことが多かった

 

 

 

 

 ・一方で、国内に向けた綿製品の生産や販売が禁止されるということが起きた

  →当時は「不要不急」と言われ、民間で使うモノの生産や輸入が厳しく制限された

   =結果的に、生活必需品が品不足になった

 

  →そこで政府は、1939年10月に国家総動員法にもとづいて、

   価格等統制令という法律を出した

   ※この法律で公定価格制(政府が商品の値段を決めること)を取り入れて、

    経済の統制をより厳しくした

 

 

 

 ・国民には、「ぜいたくは敵だ」「欲しがりません、勝つまでは」などの

  スローガンを提唱して、徹底的に消費を切り詰めることを促した

  

  →消費の切り詰めを法律でも促すために、以下のような法律を作った

   ・七・七禁令・・ぜいたく品の製造や販売を禁止する法律のこと

   ・切符制・・砂糖やマッチなどの消費を制限する法律のこと

   ・1941年に、お米を配給制にした

   ・切符制が衣料にも適用されるようになった

    →このようにして、生活必需品への統制が一気に強くなった

 

 

 

 ・農民では、1940年から供出制が行われた

  ※供出制・・政府が強制的にお米を買い上げる制度のこと

 

 ・政府は、戦争のことを考えて、農民に生産を進めようとした

  →そこで政府は、小作料を制限したり、生産者の米価を優遇したりして、

   地主の取り分を減らしていった

   ※しかし、労働力や生産のための資材の不足などが原因で、

    食糧の生産は1939年から低下し始めた

    =そこため、結局深刻な食糧難になった

 

 

 

 ・戦争の体制を整えるために、国体論にもとづいての思想の統制や

  社会主義と自由主義の思想に対する弾圧などがものすごく厳しくなった

 

  →思想をめぐっては、以下のようなことが起きている

   

   ・日中戦争が始まってすぐに、文部省が「国体の本義」というものを発行して、

    全国の学校や官庁に配った

    →こうすることで、思想をコントロールしようとした

 

   ・植民地経済政策の研究者だった矢内原忠雄という東京帝大教授が

    政府の政策を批判した

    →そのため、大学を追われることになり、矢内原忠雄の本が発売禁止になった

     =この出来事を矢内原事件という

 

   ・東京帝大の大内兵衛という人などを中心にした教授のグループが、

    人民戦線という戦線を作ろうとしていたということで、検挙される

    という事件が起きた

    =この事件を人民戦線事件という

 

 

 

 ・第1次近衛文麿内閣は、1937年10月から国家主義や軍国主義を提唱して、

  節約や貯金などで国民が戦争に協力してくれるようにしてもらうことを考えた

  →そこで、国民精神総動員運動という運動を起こした

 

 

 ・総力戦に向けて、多くの労働者を動かすために、産業報国会の結成が進められた

 

  ※産業報国会について

   ・産業報国会・・労働者と資本家が一体になって国に協力するための

           労働団体の組織のこと

   ・1938年に、資本家や労働者の幹部などが手を組んで、産業報国連盟が作られた

   ・一方で、警察の指導でそれぞの職場に労働者と資本家が一体になった

    産業報国会が作られた

    ※今まであった労働組合の一部も産業報国会に組み込まれた

   ・1940年に、産業報国連盟が大日本産業報国会になった

    →この時に、全ての労働組合が解散させられた

 

 

 

 ・1940年に、内閣情報局という機関を作った

  →内閣情報局は、ラジオや映画などのマス=メディアや、出版物や演劇などを

   総合的に統制して、戦争のためにこれらを使うという方針を取った

 

 

ポイント

・戦時中の日本の統制の様子を押さえる

・統制の時の人々の生活について押さえる

 

このあたりが今回のポイントです

 

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