保守政権の時代について
保守政権の時代について考えてみます
・保守政権について
・1960年7月に、岸信介内閣に代わって、池田勇人という人を首相とした
内閣が誕生した
→池田勇人内閣は、以下のようなことを行った
・「寛容と忍耐」というスローガンを出して、革新の勢力と
真正面からぶつかることを避けた
・「所得倍増」というものをスローガンに掲げた
・「政経分離」という方針によって、中華人民共和国との貿易を拡大させようとした
→その結果、1962年に国交が無かった中国と、準政府間貿易(LT貿易)を
することを決めた
※所得倍増・・1960年から10年後の1970年までに、国民総生産(GNP)
という指標と一人当たりの国民所得を2倍にすることを
目指した計画のこと
→実際は、計画を大きく上回る勢いで経済成長していったため、
1967年には、目標を達成した
→この時の計画を、国民所得倍増計画という
※LT貿易・・この時の交渉を担当した廖承志(L)という人と高碕達之助(T)という人の
頭文字を取って名付けられた貿易のこと
・1964年に、佐藤栄作という人による内閣が誕生した
→経済成長が順調だったこともあって、7年半以上の長期政権になった
・佐藤栄作内閣が行ったこと
→・日本と韓国との交渉を行い、1965年に日韓基本条約という条約を結んだ
※この条約によって、1910年より前の様々な条約の無効を認め、
韓国政府を、「朝鮮にある唯一の合法的な政府」と認め、
韓国との国交を樹立した
※1952年から、日本と韓国との話し合いは植民地や漁業などの問題で
中断と再開を繰り返していた
→しかし、1961年に朴正煕という人の政権が韓国で誕生してから、
韓国側の日本に対する姿勢が変わったため、
1964年からの第7次会談で合意が決まった
→この時に結ばれた協定の内容は、基本条約に加えて、漁業、請求権・経済協力、
文化協力、在日外国人の法的地位の4つの協定が結ばれた
・非核三原則(持たず、作らず、持ち込ませず)を出して、海外との交渉を進めた
→1968年に小笠原諸島の返還を達成した
→1969年の日米首脳会談(佐藤・ニクソン会談)は「核抜き」の
沖縄返還で合意された
→1971年に沖縄返還協定という協定が調印され、1972年に協定が
発効されたことで沖縄が日本に復帰した
※しかし、この時にアメリカの軍事基地は残ることになった
※沖縄問題について
・1965年以降、アメリカがベトナムに本格的に介入していった
(=この時の戦争をベトナム戦争という)
→この時に、沖縄や日本本土はアメリカ軍の前線基地になった
※そのため、戦争によって日本にドルでお金が入ってくるようになり、
経済成長を後押しした
・一方で、「基地の島」と言われた沖縄では、日本に復帰することを求める住民運動が続いた
→この時に、ベトナム戦争が激しくなると同時に、沖縄返還の問題が
改めて出てくるようになった
※沖縄問題の歴史について
・第二次世界大戦後の沖縄は、日本本土から切り離されてアメリカ軍の直接的な
軍事の支配下に置かれた
→日本の独立が回復した後も、沖縄はアメリカの政権下に置かれていた
※しかし、ベトナム戦争に伴う基地用地の強制的な取り上げと
アメリカ兵の犯罪の増加があった
→上のような流れがあって、沖縄の祖国復帰運動が本格的になった
・池田勇人、佐藤栄作内閣の時の政治の様子について
・この時、自由民主党が国会で安定して多数の議席を獲得していた
※ただし、与党の内部では総裁の地位をめぐって派閥間の抗争が繰り返されていた
・野党側では、社会党から民主社会党(後の民社党)という政党が分立した
・さらに、1964年に新しく公明党という政党が結成された
・そして、日本共産党という政党が議席を増やしていった
→この時代は、多党化現象が進んだといわれている
・そして、革新政党を批判する学生を中心に、新左翼が組織された
→新左翼が、ベトナム戦争や大学の在り方などに反発する運動を行った
※1968年から1969年にかけて、東京大学をはじめとして全国の大学で、
大学と対立した学生たちがキャンパスをバリケードで封鎖するなどの紛争も起きた
=このような紛争を大学紛争という
ポイント
・池田勇人内閣の動きについておさえる
・佐藤栄作内閣の動きについておさえる
・沖縄問題についておさえる
・当時の政治の様子をおさえる
このあたりが今回のポイントです