高度成長の終了と保守政権の乱れについて
高度成長の終了と保守政権の乱れについて考えてみます
・高度成長の終了について
・佐藤栄作内閣が終了した後、1972年に田中角栄という人を首相とした内閣が誕生した
・田中角栄内閣の動きについて
・田中角栄首相は自分が中国に訪問して、日中共同声明を発表して、
日中国交正常化を実現した
※日本側が、戦争での加害責任を認め、反省する態度を見せた上で、
日本と中国の「不正常な状態」の終了をお互いに認め、
日本は中国を「中国で唯一の合法政府」と認めた
=この結果、日本と台湾の国民政府との外交関係は途切れてしまった
→しかし、民間レベルでは貿易などで密接な関係が続いている
・田中角栄内閣は、列島改造政策を打ち出した
※列島改造政策・・太平洋ベルトに集まっていた産業を全国の地方都市に分散させて、
それぞれの地域を高速道路と新幹線で結ぶという政策のこと
→この政策に刺激されて土地の投機が生じ、石油危機による原油価格の上昇によって
激しいインフレが起きた
=このインフレを狂乱物価という
・田中角栄内閣は、狂乱物価の時に金融の引き締めを行ったが、
インフレは結局止まらず、深刻な不況になってしまった
→そのため、1974年には戦後初のマイナス成長になってしまい、
次の年からも2~5%の低成長で止まってしまった
=このような流れを受けて、高度経済成長は終了してしまった
・保守政権の乱れについて
・狂乱物価の中で、生活用品の買いだめや品不足などが生じたため、
生活に対する不安を抱える人が増えた
・一方で、田中角栄首相の政治資金の調達に関する疑惑(金脈問題)が
明るみに出てきてしまった
→そのため、1974年の終わりに田中角栄内閣が総辞職をした
→その後は、三木武夫という人による内閣が誕生した
※三木武夫内閣は「クリーンな政治」という目標をかかげた
→しかし、上のような流れの後、1976年にアメリカのロッキード社の
航空機売り込みに関する収賄容疑で田中角栄元首相が逮捕される
という出来事が起きた
=この出来事をロッキード事件という
→以上のように、様々なことが起きたため、与党の内部で派閥抗争が激しくなっていった
※このような状況で総選挙が行われたが、自由民主党が結党してから
初めて衆議院の過半数を割り込んでしまった
→この責任を取って、三木武夫は辞任した
=三木武夫に代わって、福田赳夫という人が首相になった
・福田赳夫内閣は、内需拡大を提唱して、貿易黒字の問題や円高不況などを対処した
さらに、1978年に日中平和友好条約を結ぶことに成功した
→しかし、福田赳夫首相は自民党総裁選挙に敗れて大平正芳内閣に交代してしまった
・大平正芳内閣は、国会での「保革伯仲」と与党の内部での争いが続く状況と戦っていた
→その状況で、第2次石油危機に対処して、財政再建を目指した
※しかし、1980年の選挙運動の時に、大平正芳首相が急死してしまった
=この直後の衆参同日選挙で自民党が安定して多数の票を獲得し、
鈴木善幸という人の内閣が誕生した
※低成長の経済が定着する状況で、国民の間で現状維持と個人の生活の安定を願う
という保守的な雰囲気が強まってきていた
→このような状況で、革新自治体は放漫財政や社民党と共産党の
反発や離脱があり、どんどん消えていってしまった
※特に、1978年から1979年については、京都、大阪、東京の知事選で
革新系が敗北した
・日本の政府では、1982年に中曽根康弘という人が内閣を担当するようになった
→中曽根康弘内閣は以下のようなことを行った
・日本、アメリカ、韓国の関係を密接にしようとした
・防衛費の増額を考えた
・新自由主義の世界的な風潮の中で、「戦後政治の総決算」と提唱して、
行財政改革を推進した
・老人医療や年金などの社会保障を弱めた
・電電公社(現在のNTT)、国鉄(現在のJR)、専売公社(現在のJT)を
民営化させた
※1986年の総選挙で自民党は勝ったが、中曽根内閣は財政再建のための
大型間接税の導入を果たすことができず、1987年に内閣を退陣してしまった
→結果的に、大型間接税は次の内閣である竹下登内閣が消費税という形で実現した
=消費税は1989年からスタートした
ポイント
・高度成長の終了までの流れをおさえる
・保守政権の動揺を中心とした当時の日本の政治の様子をおさえる
このあたりが今回のポイントです