殷と周について
殷と周について考えてみます
・殷と周について
・黄河中流と下流域では、城壁で囲まれた都市が発達していった
→その後、それらの都市をまとめる広い王朝国家が成立してきた
※伝説では、夏という王朝が中国の最初の王朝とされているが、
その都の場所は確認されていない
→現在確認できる最古の王朝は、夏の次に誕生したとされる殷(商)というところだった
※20世紀初めに殷墟というのが発掘され、甲骨文字を刻んだ大量の亀甲などが
発見されたことで、殷王朝が紀元前2千年紀に実在したことがはっきりと証明された
・殷について
・殷王朝は、多くの氏族集団(同じ祖先をもつという意識によって結びついた集団のこと)が
連合し、王都のもとに多くの邑(城郭都市)が従う形で成り立った国家だった
※ただし、殷の王が直接統治する範囲が限られていた
→そこで、王は以下のようなことを行い、多くの邑を支配していた
・盛大に神の祭りを行っていた
・神の考えを占って、農事や戦争など主な国事を全て決めていた
→このようにして、宗教的な権威を利用していた
※・甲骨文字は、現在の漢字のもとであり、占いの結果の記録に使われていた
・複雑な文様を持つ青銅器の多くは、祭祀用の酒器や食器だった
・周について
・周は、殷の支配領域の西部にある、渭水流域で誕生した
・周は、最初は殷に従っていた
→しかし、紀元前11世紀ころに殷を倒し、鎬京(現在の西安付近)に都をおいて、
華北を支配した
=このように王朝が交代することを、易姓革命という
・周の王は、一族、功臣、各地の土着の首長に、封土(領地)を与えて、諸侯とし、
代々その地を領有させていた
※諸侯・・封土内の人々を支配していた人のこと
※王や諸侯に従う卿、大夫、士などと呼ばれる家臣にも、それぞれ地位と封土を与えられた
→封土を分けることによる統治のしかたは「封建」と呼ばれた
→封建のように、代々続く家柄を重視する統治の仕組みのもとでは、
氏族のまとまりが重要だった
=そのため、親族関係の秩序やそれに応じた祭祀の仕方を定めた
宗法というものが作られた
※分権的な「封建」体制を一つにまとめていたのは、天命を受けた天子と呼ばれる
周の王の権威だった
ポイント
・殷についておさえる
・周についておさえる
このあたりが今回のポイントです