モンゴル時代のユーラシアとモンゴル帝国の解体について
モンゴル時代のユーラシアとモンゴル帝国の解体について考えてみます
・モンゴル時代のヨーロッパとの交流の様子について
・モンゴル帝国が出来たことで、東西の交通網が整備されたことがあり、
東西の文化の交流が盛んになった
・当時、西ヨーロッパは、イスラーム地域を占領したモンゴル帝国に関心を持っていた
→そのため、西ヨーロッパの人達は、以下のような動きをおこした
・ローマ教皇・・プラノ=カルピエという人を使節としてモンゴル高原に送った
・フランスの王であったルイ9世・・ルブルックという人を使節として
モンゴル高原に送った
※イタリアの商人だったマルコポーロという人は、大都に来て元につかえ、
その様子をまとめた「世界の記述」(「東方見聞録」)という作品を書いた
・当時の宗教と文化の様子について
・モンゴル帝国は、一時期イスラーム教を圧迫するということが起きた
→その後、キプチャク=ハン国が、さらにその後イル=ハン国が、
イスラーム教を保護するようになった
・当時、元に来た色目人にイスラーム教徒が多かった
→そのため、中国にもイスラーム教が広がっていった
※イスラームの天文学を取り入れて、郭守敬という人が作った授時暦というのは、
後に日本にも取り入れられた
=授時暦は、江戸時代の貞享暦を指す
・元からイル=ハン国に中国絵画が伝えられた
→この中国絵画が、イランで発達した細密画(ミニチュアール)というのに
大きな影響を与えた
・イル=ハン国は、初期にネストリウス派という派閥のキリスト教を保護していた
※イル=ハン国は、このキリスト教をヨーロッパのキリスト教諸国や
ローマ教皇庁と使節を交換した
=この交換がきっかけになって、13世紀の末にモンテ=コルヴィノという人が派遣され、
大都の大司教になった
→この動きによって、初めて中国でカトリックが布教された
・モンゴル支配下の地域では、漢語、チベット語、トルコ語、ペルシア語、ロシア語、
ラテン語など、様々な言語が使われていた
・当時は、モンゴル語を表記するパスパ文字という文字もあった
※パスパ文字は、フビライの師匠だったチベット仏教の教主であるパスパという人が
作ったものだった
=しかし、結果的にパスパ文字は廃れ、ウイグル文字でモンゴル語で表記することが
普通になった
・モンゴル帝国の解体について
・14世紀に入ると、以下の大きな2つのことが起きた
→・ユーラシア全域で天災が続いた
・モンゴル支配下の各地で、内紛によって政権が揺らぎ始めた
・この時期に、以下のような様々な争いと動きが見られるようになった
→・チャガタイ=ハン国では、分裂争いの中から、ティムールというところが出てきた
※この動きは、イル=ハン国の支配していたイラン・イラクにまでいたる広大な地域に
領土を広げていった
・キプチャク=ハン国では、14世紀なかばころから内紛によって
政権のつながりが緩んできた
※この時に、モスクワ大公国が段々と勢力を伸ばしていった
・中国では、放漫な財政や内紛などの影響で、元の統治が揺らぎ始めた
※さらに、この時期は交鈔の大量発行や専売制度の強化による飢饉などによって、
民衆が苦しめられていた
→そのため、紅巾の乱などを始めとして各地で反乱が起きるようになった
=結果的に、1368年に元は明軍に大都を奪われて、
モンゴル高原に退くことになってしまった
ポイント
・モンゴル時代のヨーロッパとの交流の様子についておさえる
・当時の宗教と文化の様子についておさえる
・モンゴル帝国の解体についておさえる
このあたりが今回のポイントです