バルト海の動きとポーランドの分割について
バルト海の動きと、ポーランドの分割について考えてみます
・バルト海の動きについて
・ロシアでは、17世紀の後半に、ステンカ=ラージンの農民反乱が鎮圧される
ということが起きた
→その後、帝位についたピョートル1世(大帝)が、自ら西欧の国々を視察し、
これを模範に改革を進めた
・ピョートル1世のもとで、ロシアは軍備の拡大を背景にシベリア経営を進めた
→この後に、中国の清朝とネルチンスク条約を結んで、
両方の国の境界を定め、通商を開いた
→その裏で、南方ではオスマン帝国を圧迫してアゾフ海に進んだ
・当時、バルト海を支配していたスウェーデンでは、
年少のカール12世という人が、王位についた
→すると、ピョートル1世はポーランド、デンマークと手を組んでスウェーデンを攻撃した
=この戦いを、北方戦争という
※北方戦争について
・戦争の状況は、最初はスウェーデンが優位にたった
・その後、ロシアが体制を立て直してスウェーデンをやぶった
→その結果、ロシアがバルト海での勝者になった
・ロシアは、東方での大国としての地位を固め、
ヨーロッパの強国の一役を担うようになった
※バルト海沿岸に新たに建設されたペテルブルクが、1712年から首都にされた
・18世紀の後半に、女帝のエカチェリーナ2世という人が、ピョートルの事業を受け継いだ
→エカチェリーナ2世は、以下のようなことを行った
・南方では、クリミア半島をオスマン帝国から奪った
・東方では、オホーツク海まで進出し、日本に使節のラクスマンを送った
・ロシアでは、プロイセンと同じように、近代に入って逆に農民の地位が悪化した
・エカチェリーナ2世は、自分が政治を担当した初期は、
啓蒙専制君主として様々な改革を目指した
※しかし、プガチョフの農民反乱というのが起きてからは、
貴族と妥協するようになった
→その後、農奴制を強化していった
・ポーランドの分割について
・ポーランドは、16世紀の後半にヤゲウォ朝が断絶するということが起きた
→すると、選挙王制のもとで国内の貴族間での対立が隣接する大国が
関わるということが起きた
・プロイセンは、1772年にオーストリアを誘って、
ロシアにポーランドの分割を提案した
=その結果、プロイセン、オーストリア、ロシアの3国は、
それぞれの国境に近いポーランドの領土を奪った
→上のような動きに反発して、ポーランドでは憲法制定など行い、
国家の近代化が試みられた
※しかし、西欧諸国の関心がフランス革命に向かうと、
1793年にプロイセンはロシアと第2回の分割を強行した
※コシューシコ(コシチューシコ)が連れる義勇軍の抵抗も失敗した
→その後、3国は1795年に、残りの領土も分割した
=結果的にポーランド国家は消滅し、以降1世紀以上にわたって
外国支配のもとに置かれることになった
ポイント
・北方戦争を中心にバルト海での各国の動きについておさえる
・ポーランドの分割の様子についておさえる
このあたりが今回のポイントです