バルト海の動きとポーランドの分割について

閲覧数:1,683
投稿者:       投稿日時:2013/10/14 23:40      
(まだ評価されていません。)
コメント数: 0       お気に入り登録数:2

LINEで送る
Pocket

バルト海の動きと、ポーランドの分割について考えてみます

 

 

・バルト海の動きについて

 

 

 

 ・ロシアでは、17世紀の後半に、ステンカ=ラージンの農民反乱が鎮圧される

  ということが起きた

  →その後、帝位についたピョートル1世(大帝)が、自ら西欧の国々を視察し、

   これを模範に改革を進めた

 

 ・ピョートル1世のもとで、ロシアは軍備の拡大を背景にシベリア経営を進めた

  →この後に、中国の清朝とネルチンスク条約を結んで、

   両方の国の境界を定め、通商を開いた

  →その裏で、南方ではオスマン帝国を圧迫してアゾフ海に進んだ

 

 

 

 

 ・当時、バルト海を支配していたスウェーデンでは、

  年少のカール12世という人が、王位についた

  →すると、ピョートル1世はポーランド、デンマークと手を組んでスウェーデンを攻撃した

   =この戦いを、北方戦争という

 

   ※北方戦争について

    ・戦争の状況は、最初はスウェーデンが優位にたった

    ・その後、ロシアが体制を立て直してスウェーデンをやぶった

     →その結果、ロシアがバルト海での勝者になった

    ・ロシアは、東方での大国としての地位を固め、

     ヨーロッパの強国の一役を担うようになった

     ※バルト海沿岸に新たに建設されたペテルブルクが、1712年から首都にされた

 

 

 

 

 ・18世紀の後半に、女帝のエカチェリーナ2世という人が、ピョートルの事業を受け継いだ

  →エカチェリーナ2世は、以下のようなことを行った

   ・南方では、クリミア半島をオスマン帝国から奪った

   ・東方では、オホーツク海まで進出し、日本に使節のラクスマンを送った

 

 ・ロシアでは、プロイセンと同じように、近代に入って逆に農民の地位が悪化した

 

 ・エカチェリーナ2世は、自分が政治を担当した初期は、

  啓蒙専制君主として様々な改革を目指した

  ※しかし、プガチョフの農民反乱というのが起きてからは、

   貴族と妥協するようになった

   →その後、農奴制を強化していった

 

 

 

 

 

 

・ポーランドの分割について

 

 

 ・ポーランドは、16世紀の後半にヤゲウォ朝が断絶するということが起きた

  →すると、選挙王制のもとで国内の貴族間での対立が隣接する大国が

   関わるということが起きた

 

 ・プロイセンは、1772年にオーストリアを誘って、

  ロシアにポーランドの分割を提案した

  =その結果、プロイセン、オーストリア、ロシアの3国は、

   それぞれの国境に近いポーランドの領土を奪った

 

  →上のような動きに反発して、ポーランドでは憲法制定など行い、

   国家の近代化が試みられた

   ※しかし、西欧諸国の関心がフランス革命に向かうと、

    1793年にプロイセンはロシアと第2回の分割を強行した

 

  ※コシューシコ(コシチューシコ)が連れる義勇軍の抵抗も失敗した

 

  →その後、3国は1795年に、残りの領土も分割した

 

 

  =結果的にポーランド国家は消滅し、以降1世紀以上にわたって

   外国支配のもとに置かれることになった

 

 

ポイント

・北方戦争を中心にバルト海での各国の動きについておさえる

・ポーランドの分割の様子についておさえる

 

このあたりが今回のポイントです

閲覧数:1,683
LINEで送る
Pocket


(この記事はまだ評価されていません)
Loading ... Loading ...
投稿者:
投稿日時2013/10/14 23:40

コメント数: 0
お気に入り登録数:2




コメントを残す