<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<rss version="2.0"
	xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
	xmlns:wfw="http://wellformedweb.org/CommentAPI/"
	xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
	xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom"
	xmlns:sy="http://purl.org/rss/1.0/modules/syndication/"
	xmlns:slash="http://purl.org/rss/1.0/modules/slash/"
		xmlns:xhtml="http://www.w3.org/1999/xhtml"
>

<channel>
	<title>アラエス &#187; ウィーン体制</title>
	<atom:link href="http://ahlaes.com/post/tag/%e3%82%a6%e3%82%a3%e3%83%bc%e3%83%b3%e4%bd%93%e5%88%b6/feed" rel="self" type="application/rss+xml" />
	<link>http://ahlaes.com</link>
	<description>－全ての人に学びの空間を－</description>
	<lastBuildDate>Thu, 23 Oct 2025 02:10:23 +0000</lastBuildDate>
	<language>ja</language>
		<sy:updatePeriod>hourly</sy:updatePeriod>
		<sy:updateFrequency>1</sy:updateFrequency>
	<generator>https://wordpress.org/?v=3.8.41</generator>
<xhtml:link rel="alternate" media="handheld" type="text/html" href="http://ahlaes.com/post/tag/%e3%82%a6%e3%82%a3%e3%83%bc%e3%83%b3%e4%bd%93%e5%88%b6/feed" />
	<item>
		<title>ナポレオンによるヨーロッパへの影響とウィーン体制の誕生の理由と流れ</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/2538</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/2538#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 06 May 2014 16:53:41 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[コイングラム]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[近代ヨーロッパ史中期]]></category>
		<category><![CDATA[ウィーン会議]]></category>
		<category><![CDATA[ウィーン体制]]></category>
		<category><![CDATA[ナポレオン]]></category>
		<category><![CDATA[メッテルニヒ]]></category>
		<category><![CDATA[七月革命]]></category>
		<category><![CDATA[大陸封鎖令]]></category>
		<category><![CDATA[百日天下]]></category>
		<category><![CDATA[第2回対仏大同盟]]></category>
		<category><![CDATA[第一帝政]]></category>
		<category><![CDATA[統領政府]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://ahlaes.com/?p=2538</guid>
		<description><![CDATA[フランス革命を終わらせたのは、ナポレオン＝ボナパルトという人だった &#160; ※どうやってナポレオンはフランス革命を終わらせたのか ・1799年に、第2回対仏大同盟によって、フランスが危機におちいっていた →そこで、 [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/2538">ナポレオンによるヨーロッパへの影響とウィーン体制の誕生の理由と流れ</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>フランス革命を終わらせたのは、<strong>ナポレオン＝ボナパルト</strong>という人だった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>※どうやってナポレオンはフランス革命を終わらせたのか</p>
<p>・1799年に、<strong>第2回対仏大同盟</strong>によって、フランスが危機におちいっていた</p>
<p>→そこで、ナポレオンはエジプトから帰国して、<strong>総裁政府</strong>を倒した</p>
<p>＝この総裁政府を倒した動きを、<strong>ブリュメール18日のクーデター</strong>という</p>
<p>→ナポレオンは、ブリュメール18日のクーデターによって、「革命は終わった」と宣言した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ナポレオンは、フランス革命を終わらせた後、様々なことを行った</p>
<p>・自ら第一統領となって<strong>統領政府</strong>を作った</p>
<p>・フランス銀行を作った</p>
<p>・徴兵制による国民軍を作った</p>
<p>・ナポレオン法典を作って、所有権の確定などを行った</p>
<p>＝このような革命の成功を背景に、1804年にナポレオンが国民投票によって皇帝になった</p>
<p>（＝これを<strong>第一帝政</strong>という）</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>第一帝政の後、ナポレオンは以下のようなことを進めた</p>
<p>・1806年に神聖ローマ帝国を消滅させた</p>
<p>・ロシア以外の大陸全体を支配した</p>
<p>・イギリスを経済封鎖によって服従させた</p>
<p>・フランスの産業を保護するために<strong>大陸封鎖令</strong>を出した</p>
<p>・新たな支配地でナポレオン法典を施行した</p>
<p>＝これらの結果、市民革命の考え方がヨーロッパの国々に広まっていった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>※ただし、途中でロシアが大陸封鎖令を破るということが起きた</p>
<p>→そのため、ナポレオンはロシアを倒そうとして、1812年に<strong>ロシア遠征</strong>を行った</p>
<p>※しかし、ナポレオンはロシア遠征でロシアに負ける、ということが起きた</p>
<p>→この出来事によって、ナポレオンの支配に不満を持っていた人たちがナポレオンに対して戦争を起こした</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>＝結果的に、1813年の<strong>ライプツィヒの戦い</strong>でナポレオンは負けてエルバ島に流された</p>
<p>※一時は脱出して政権を握ったものの、再び敗れ、セントヘレナ島に流された</p>
<p>＝これを<strong>百日天下</strong>という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ナポレオンの没落後は、フランス革命後の変化に対処するため、<strong>ウィーン会議</strong>が開かれた</p>
<p>※ウィーン会議は、オーストリア外相の<strong>メッテルニヒ</strong>という人を中心に、ヨーロッパ諸国の代表が集まって行われた</p>
<p>＝会議によって、<strong>正統主義</strong>にもとづき、各国を革命以前の状態に戻すことを決めた</p>
<p>※正統主義・・革命前の君主に支配権を認める考え方のこと</p>
<p>＝さらに、秩序維持のために<strong>神聖同盟</strong>と<strong>四国同盟</strong>が結ばれた</p>
<p>→この結果成立した国際秩序を<strong>ウィーン体制</strong>という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>※ただし、ウィーン体制による、王政を中心としたフランスで、1830年に再び国民が立ち上がった</p>
<p>→その結果、王族で自由主義的な<strong>ルイ＝フィリップ</strong>という人を王位にした</p>
<p>＝この革命を、<strong>七月革命</strong>という</p>
<p>&nbsp;</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/2538">ナポレオンによるヨーロッパへの影響とウィーン体制の誕生の理由と流れ</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://ahlaes.com/post/2538/feed</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
	<xhtml:link rel="alternate" media="handheld" type="text/html" href="http://ahlaes.com/post/2538" />
	</item>
		<item>
		<title>フランス七月革命について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/971</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/971#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 16 Oct 2013 06:22:38 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[副店長]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[近代ヨーロッパ史後期・末期]]></category>
		<category><![CDATA[ウィーン体制]]></category>
		<category><![CDATA[シャルル10世]]></category>
		<category><![CDATA[フランス七月革命]]></category>
		<category><![CDATA[ルイ＝フィリップ]]></category>
		<category><![CDATA[七月王政]]></category>
		<category><![CDATA[七月革命]]></category>
		<category><![CDATA[立憲君主制]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://ahlaes.com/?p=971</guid>
		<description><![CDATA[フランス七月革命について考えてみます &#160; &#160; ・フランスの七月革命について &#160; &#160; 　・フランスでは、厳しい制限選挙制を用いる立憲君主制が採用されていた 　　＝立憲君主制のもとで、 [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/971">フランス七月革命について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>フランス七月革命について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・フランスの七月革命について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・フランスでは、厳しい制限選挙制を用いる立憲君主制が採用されていた</p>
<p>　　＝立憲君主制のもとで、シャルル１０世という人が、</p>
<p>　　　貴族や聖職者を重視する反動的な政策を取った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・シャルル１０世は、１８３０年に国民の不満をそらすために、圧政をしいた</p>
<p>　　※代表的な動きに、オスマン帝国支配下のアルジェリアに遠征を行い、</p>
<p>　　　議会を未招集のまま解散する、などがある</p>
<p>　　　＝そのため、１８３０年７月に、パリで革命が起こってシャルル１０世が</p>
<p>　　　　追放されるということが起きた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　→シャルル１０世の追放後は、自由主義者として知られるオルレアン家の</p>
<p>　　　　ルイ＝フィリップという人が王にむかえられた</p>
<p>　　　　※この時に、七月王政という王政が誕生した</p>
<p>　　　　　＝七月王政が誕生するまでの一連の流れを、七月革命という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　　※七月革命は、各地に広がっていった</p>
<p>　　　　　→代表的な動きに、ベルギーがオランダから独立して、</p>
<p>　　　　　　１８３１年に立憲制の王国となったことが挙げられる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　→一方で、ポーランド、ドイツ、イタリアで起きた反乱は、鎮圧された</p>
<p>　　</p>
<p>　※以上のような流れを受けて、基本的に西ヨーロッパの国々はウィーン体制から</p>
<p>　　距離を取るようになった</p>
<p>　　＝結果的にウィーン体制の重点は、中欧におかれるようになっていった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・七月革命の流れをおさえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/971">フランス七月革命について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://ahlaes.com/post/971/feed</wfw:commentRss>
		<slash:comments>1</slash:comments>
	<xhtml:link rel="alternate" media="handheld" type="text/html" href="http://ahlaes.com/post/971" />
	</item>
		<item>
		<title>ウィーン体制の動揺について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/970</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/970#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 16 Oct 2013 06:17:26 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[副店長]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[近代ヨーロッパ史後期・末期]]></category>
		<category><![CDATA[イダルゴ]]></category>
		<category><![CDATA[ウィーン体制]]></category>
		<category><![CDATA[サン＝マルティン]]></category>
		<category><![CDATA[シモン＝ボリバル]]></category>
		<category><![CDATA[デカブリストの乱]]></category>
		<category><![CDATA[トゥサン＝ルヴェルチュール]]></category>
		<category><![CDATA[ナショナリズム]]></category>
		<category><![CDATA[モンロー教書]]></category>
		<category><![CDATA[ロンドン会議]]></category>
		<category><![CDATA[独立帝国]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://ahlaes.com/?p=970</guid>
		<description><![CDATA[ウィーン体制の動揺について考えてみます &#160; &#160; ・ウィーン体制の動揺について &#160; &#160; &#160; 　・フランス革命とナポレオン支配のもとで、自由主義とナショナリズム（国民主義）  [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/970">ウィーン体制の動揺について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>ウィーン体制の動揺について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・ウィーン体制の動揺について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・フランス革命とナポレオン支配のもとで、自由主義とナショナリズム（国民主義）</p>
<p>　　という考えが生まれてきていた</p>
<p>　　→自由主義とナショナリズムは、ウィーン体制に対する様々な反抗運動を</p>
<p>　　　起こしたと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・多民族国家だったオーストリアは、保守主義の立場から、</p>
<p>　　反抗運動の抑圧へ向けて努力した</p>
<p>　　→この抑圧を無視して、イギリスは１８２０年ころからウィーン体制を離れる</p>
<p>　　　姿勢を見せ始めた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・ラテンアメリカでは、トゥサン＝ルヴェルチュールという人による抵抗運動が起きた</p>
<p>　　→この抵抗運動をきっかけに、１８０４年にフランス領ハイチが独立して</p>
<p>　　　黒人共和国になった</p>
<p>　　　※ハイチは、１５世紀の終わりにスペイン領になったが、</p>
<p>　　　　１７世紀の終わりにフランス領植民地になった</p>
<p>　</p>
<p>　　　※ラテンアメリカの住民の構成は、以下のような階層だった</p>
<p>　　　　→・クリオーリョ</p>
<p>　　　　　・メスティーソ（先住民と白人の混血）</p>
<p>　　　　　・インディオ（先住民）</p>
<p>　　　　　・ムラート（白人と黒人の混血）</p>
<p>　　　　　・黒人　　など</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１８１０年代には、南米の北部でシモン＝ボリバルという人が、</p>
<p>　　南部でサン＝マルティンという人が独立運動を指導した</p>
<p>　　</p>
<p>　・メキシコでは、イダルゴという人が蜂起をしたことをきっかけに、独立を達成した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→これらの動きは、植民地生まれの白人であるクリオーリョ層と呼ばれる人達を</p>
<p>　　　主体としたものだった</p>
<p>　　　＝その後、スペインからの独立後に生まれた共和国では、</p>
<p>　　　　クリオーリョの大地主の支配が続いた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　※一方で、ブラジルでは、ポルトガルの王子が帝位について</p>
<p>　　独立帝国（１８８９年以降共和国）になった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１８２３年に、合衆国大統領のモンローという人がモンロー教書で</p>
<p>　　アメリカ大陸とヨーロッパが「お互いに干渉しない」ということを提唱する</p>
<p>　　ということが起きた</p>
<p>　　※この裏で、当時のイギリスの外相のカニングという人が、</p>
<p>　　　ラテンアメリカ市場の開拓を狙って、様々な国の独立を認めるということを行っていた</p>
<p>　　　＝そのため、メッテルニヒは、上のような独立運動に干渉することが出来なかった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・ヨーロッパでは、ギリシアが１８２１年にオスマン帝国からの独立戦争を起こす</p>
<p>　　ということが起きた</p>
<p>　　※この時、イギリス、フランス、ロシアはバルカンに対する利害を考えて、</p>
<p>　　　ギリシアの独立を支援した</p>
<p>　　　＝その結果、１８２９年に独立が達成され、１８３０年にロンドン会議で列国の承認を得た</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・ロシアでは、ニコライ１世という人が即位するということが起きた</p>
<p>　　→その時、１８２５年の１２月に、貴族の青年将校が自由主義的改革を求めて</p>
<p>　　　デカブリスト（十二月党員）の乱というのをおこした</p>
<p>　　　※しかし、デカブリストの乱はすぐに鎮圧されてしまった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・ウィーン体制に対する各国の動きについておさえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/970">ウィーン体制の動揺について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://ahlaes.com/post/970/feed</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
	<xhtml:link rel="alternate" media="handheld" type="text/html" href="http://ahlaes.com/post/970" />
	</item>
		<item>
		<title>ウィーン会議について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/969</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/969#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 16 Oct 2013 06:12:42 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[副店長]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[近代ヨーロッパ史後期・末期]]></category>
		<category><![CDATA[ウィーン会議]]></category>
		<category><![CDATA[ウィーン体制]]></category>
		<category><![CDATA[タレーラン]]></category>
		<category><![CDATA[ナポレオン戦争]]></category>
		<category><![CDATA[パックス＝ブリタニカ]]></category>
		<category><![CDATA[フランス革命]]></category>
		<category><![CDATA[メッテルニヒ]]></category>
		<category><![CDATA[五国同盟]]></category>
		<category><![CDATA[四国同盟]]></category>
		<category><![CDATA[正統主義]]></category>
		<category><![CDATA[神聖同盟]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://ahlaes.com/?p=969</guid>
		<description><![CDATA[ウィーン会議について考えてみます &#160; &#160; ・ウィーン会議について &#160; &#160; 　・１８１４年から１８１５年にかけて、フランス革命とナポレオン戦争の戦後の処理のために、 　　オスマン帝国 [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/969">ウィーン会議について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>ウィーン会議について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・ウィーン会議について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１８１４年から１８１５年にかけて、フランス革命とナポレオン戦争の戦後の処理のために、</p>
<p>　　オスマン帝国以外の全てのヨーロッパの支配者が参加する国際会議というのが、</p>
<p>　　ウィーンで開かれた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・会議では、オーストリア外相（のちの宰相）であるメッテルニヒという人が議長として、</p>
<p>　　対立する各国の利害を調整していった</p>
<p>　　※しかし、基本的には列強間の合意によって決定されていた</p>
<p>　　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　→ウィーン会議の時には、以下のような動きが見られた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・正統主義によって、フランスやスペインでブルボン王家が復活した</p>
<p>　　　※正統主義とは、当時のフランスの外相のタレーランという人提唱した、</p>
<p>　　　　フランス革命前の王朝と旧制度の復活を目指す理念のこと</p>
<p>　　　　→ただし、現実では大国の利害が優先されたため、正統主義が無視されることが多かった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・一方で、大国間の勢力の均衡がはかられた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・ロシア皇帝が、ポーランドの王を兼ねることになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・プロイセンが東西に領土を拡大した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・イギリスが、旧オランダ領のスリランカ（セイロン島）とケープ植民地の領有を認められた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・立憲王国になったオランダは、旧オーストラリア領ネーデルラント（ベルギー）を譲られた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・オーストリアは、北イタリアを得た</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・スイスは永世中立国になった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・ドイツでは、神聖ローマ帝国が復活しなかった</p>
<p>　　　→その代わり、オーストリア、プロイセン以下３５の君主国と４つの自由都市からなるドイツ連邦が組織された</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　＝これら一連の動きによる世界の国際秩序を、ウィーン体制という</p>
<p>　　　※ウィーン体制は、現状維持を目指すものだった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>　・１９世紀の世界では、イギリスが自分の国の経済的な繁栄と圧倒的な海軍力を背景に、</p>
<p>　　強力な影響力を持つことで、比較的平和が保たれていた</p>
<p>　　＝このような世界の状況を、パックス＝ブリタニカという</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※当時、イギリスにならんで、ヨーロッパの国際秩序を支えたのが、</p>
<p>　　　大きな陸軍を持つロシアだった</p>
<p>　　　→当時のロシアの皇帝のアレクサンドル１世が提唱した神聖同盟というのには、</p>
<p>　　　　多くの君主が参加した</p>
<p>　　　→さらにロシアは、イギリス、プロイセン、オーストリアと１８１５年に四国同盟を結んだ</p>
<p>　　　　※四国同盟は、１８１８年にフランスも加わって、五国同盟を結んだ</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・ウィーン体制の内容についておさえる</p>
<p>・ナポレオン没後の世界の様子についておさえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/969">ウィーン会議について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://ahlaes.com/post/969/feed</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
	<xhtml:link rel="alternate" media="handheld" type="text/html" href="http://ahlaes.com/post/969" />
	</item>
	</channel>
</rss>
