ウィーン体制の動揺について
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ウィーン体制の動揺について考えてみます
・ウィーン体制の動揺について
・フランス革命とナポレオン支配のもとで、自由主義とナショナリズム(国民主義)
という考えが生まれてきていた
→自由主義とナショナリズムは、ウィーン体制に対する様々な反抗運動を
起こしたと言われている
・多民族国家だったオーストリアは、保守主義の立場から、
反抗運動の抑圧へ向けて努力した
→この抑圧を無視して、イギリスは1820年ころからウィーン体制を離れる
姿勢を見せ始めた
・ラテンアメリカでは、トゥサン=ルヴェルチュールという人による抵抗運動が起きた
→この抵抗運動をきっかけに、1804年にフランス領ハイチが独立して
黒人共和国になった
※ハイチは、15世紀の終わりにスペイン領になったが、
17世紀の終わりにフランス領植民地になった
※ラテンアメリカの住民の構成は、以下のような階層だった
→・クリオーリョ
・メスティーソ(先住民と白人の混血)
・インディオ(先住民)
・ムラート(白人と黒人の混血)
・黒人 など
・1810年代には、南米の北部でシモン=ボリバルという人が、
南部でサン=マルティンという人が独立運動を指導した
・メキシコでは、イダルゴという人が蜂起をしたことをきっかけに、独立を達成した
→これらの動きは、植民地生まれの白人であるクリオーリョ層と呼ばれる人達を
主体としたものだった
=その後、スペインからの独立後に生まれた共和国では、
クリオーリョの大地主の支配が続いた
※一方で、ブラジルでは、ポルトガルの王子が帝位について
独立帝国(1889年以降共和国)になった
・1823年に、合衆国大統領のモンローという人がモンロー教書で
アメリカ大陸とヨーロッパが「お互いに干渉しない」ということを提唱する
ということが起きた
※この裏で、当時のイギリスの外相のカニングという人が、
ラテンアメリカ市場の開拓を狙って、様々な国の独立を認めるということを行っていた
=そのため、メッテルニヒは、上のような独立運動に干渉することが出来なかった
・ヨーロッパでは、ギリシアが1821年にオスマン帝国からの独立戦争を起こす
ということが起きた
※この時、イギリス、フランス、ロシアはバルカンに対する利害を考えて、
ギリシアの独立を支援した
=その結果、1829年に独立が達成され、1830年にロンドン会議で列国の承認を得た
・ロシアでは、ニコライ1世という人が即位するということが起きた
→その時、1825年の12月に、貴族の青年将校が自由主義的改革を求めて
デカブリスト(十二月党員)の乱というのをおこした
※しかし、デカブリストの乱はすぐに鎮圧されてしまった
ポイント
・ウィーン体制に対する各国の動きについておさえる
このあたりが今回のポイントです