ウィーン体制の動揺について

閲覧数:3,006
投稿者:       投稿日時:2013/10/16 15:17      
(まだ評価されていません。)
コメント数: 0       お気に入り登録数:1

LINEで送る
Pocket

ウィーン体制の動揺について考えてみます

 

 

・ウィーン体制の動揺について

 

 

 

 ・フランス革命とナポレオン支配のもとで、自由主義とナショナリズム(国民主義)

  という考えが生まれてきていた

  →自由主義とナショナリズムは、ウィーン体制に対する様々な反抗運動を

   起こしたと言われている

 

 

 

 ・多民族国家だったオーストリアは、保守主義の立場から、

  反抗運動の抑圧へ向けて努力した

  →この抑圧を無視して、イギリスは1820年ころからウィーン体制を離れる

   姿勢を見せ始めた

 

 

 

 ・ラテンアメリカでは、トゥサン=ルヴェルチュールという人による抵抗運動が起きた

  →この抵抗運動をきっかけに、1804年にフランス領ハイチが独立して

   黒人共和国になった

   ※ハイチは、15世紀の終わりにスペイン領になったが、

    17世紀の終わりにフランス領植民地になった

 

   ※ラテンアメリカの住民の構成は、以下のような階層だった

    →・クリオーリョ

     ・メスティーソ(先住民と白人の混血)

     ・インディオ(先住民)

     ・ムラート(白人と黒人の混血)

     ・黒人  など

 

 ・1810年代には、南米の北部でシモン=ボリバルという人が、

  南部でサン=マルティンという人が独立運動を指導した

  

 ・メキシコでは、イダルゴという人が蜂起をしたことをきっかけに、独立を達成した

 

  →これらの動きは、植民地生まれの白人であるクリオーリョ層と呼ばれる人達を

   主体としたものだった

   =その後、スペインからの独立後に生まれた共和国では、

    クリオーリョの大地主の支配が続いた

 

 ※一方で、ブラジルでは、ポルトガルの王子が帝位について

  独立帝国(1889年以降共和国)になった

 

 

 

 ・1823年に、合衆国大統領のモンローという人がモンロー教書で

  アメリカ大陸とヨーロッパが「お互いに干渉しない」ということを提唱する

  ということが起きた

  ※この裏で、当時のイギリスの外相のカニングという人が、

   ラテンアメリカ市場の開拓を狙って、様々な国の独立を認めるということを行っていた

   =そのため、メッテルニヒは、上のような独立運動に干渉することが出来なかった

 

 

 

 ・ヨーロッパでは、ギリシアが1821年にオスマン帝国からの独立戦争を起こす

  ということが起きた

  ※この時、イギリス、フランス、ロシアはバルカンに対する利害を考えて、

   ギリシアの独立を支援した

   =その結果、1829年に独立が達成され、1830年にロンドン会議で列国の承認を得た

 

 

 

 ・ロシアでは、ニコライ1世という人が即位するということが起きた

  →その時、1825年の12月に、貴族の青年将校が自由主義的改革を求めて

   デカブリスト(十二月党員)の乱というのをおこした

   ※しかし、デカブリストの乱はすぐに鎮圧されてしまった

 

 

ポイント

・ウィーン体制に対する各国の動きについておさえる

 

このあたりが今回のポイントです

閲覧数:3,006
LINEで送る
Pocket


(この記事はまだ評価されていません)
Loading ... Loading ...
投稿者:
投稿日時2013/10/16 15:17

コメント数: 0
お気に入り登録数:1




コメントを残す