ドイツの統一について

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投稿者:       投稿日時:2013/10/16 16:18      
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ドイツの統一について考えてみます

 

 

・ドイツの統一について

 

 

 ・ドイツでは、連邦体制のもとで政治的な分裂が続いていた

 

 ・1834年には、ライン川中流域の工業地帯を持つプロイセンを中心に、

  オーストリア以外の大多数のドイツ諸邦からなる、ドイツ関税同盟が発足した

  =この同盟によって、商工業者が願った経済的な統一がほぼ実現された

 

 

 

 ・三月革命の時には、フランクフルト国民会議で、ドイツの統一が目指された

  ※しかし、この時に大ドイツ主義と小ドイツ主義が対立した

   →・大ドイツ主義・・オーストリアのドイツ人地域とベーメンを含む

             統一方式を推す主義のこと

    ・小ドイツ主義・・プロイセンを中心に、オーストリアを排除して行う

             ドイツ統一方式を推す主義のこと

 

  →結果的に、小ドイツ主義の憲法がまとめられた

   ※この時に、プロイセン王をドイツ皇帝に推した

    =しかし、王の拒否にあって、失敗に終わってしまった

 

 

 

 

 ・その後、統一の主導者は自由主義者から、プロイセンの政府や軍部を支配する

  保守的なユンカー層に移った

  ※そのため、ユンカー出身のビスマルクという人が、1862年にヴィルヘルム1世から

   首相に任じられた

   →その結果、議会の反対を押し切って軍備を拡大するということが起きた

    =これを、鉄血政治という

     ※ビスマルクが1862年の議会演説から、鉄血政治と呼ばれるようになった

 

 

 

 

 ・プロイセンは、デンマークから奪ったシュレスヴィヒとホルシュタインの

  両方の州の処分に関して、プロイセン=オーストリア(普墺)戦争という戦争を

  起こして、オーストリアと戦った

  →1866年にプロイセンは、オーストリアを倒した

   =その結果、プロイセンは以下のような動きを見せた

    ・ドイツ連邦を解体した

    ・1867年にプロイセンを盟主とする北ドイツ連邦を作り上げた

 

   ※この時に、南ドイツの諸邦もプロイセンと同盟した

    =そのため、統一が完成に近づいた

 

   ※当時のオーストリアについて

    ・オーストリアはドイツから除外された

    ・1867年にマジャール人のハンガリーを王国と認める

     妥協(アウスグライヒ)を行った

    ・同君連合としてのオーストリア=ハンガリー帝国に再編した

    ・しかし、多民族国家として、民族問題を抱え続けていた

 

 

 

 

 ・フランスのナポレオン3世は、プロイセンの強大化を恐れた

  →そのため、スペインの王位継承問題という問題をきっかけに、

   1870年7月にプロイセン=フランス戦争を始めた

   =しかし、ナポレオン3世は、9月にはフランス北部のスダン(セダン)で捕虜になった

    ※そのため、この時に第二帝政が廃止されることになった

 

  →戦争は、1871年にフランスにとって厳しい条件で終了した

   ※実際にフランスは、以下のような行動を取った

    ・アルザスとロレーヌの両方の州をドイツに譲った

    ・莫大な賠償金が課せられた

 

 

ポイント

・ドイツの統一の動きと流れについておさえる

 

このあたりが今回のポイントです

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