ドイツの統一について
ドイツの統一について考えてみます
・ドイツの統一について
・ドイツでは、連邦体制のもとで政治的な分裂が続いていた
・1834年には、ライン川中流域の工業地帯を持つプロイセンを中心に、
オーストリア以外の大多数のドイツ諸邦からなる、ドイツ関税同盟が発足した
=この同盟によって、商工業者が願った経済的な統一がほぼ実現された
・三月革命の時には、フランクフルト国民会議で、ドイツの統一が目指された
※しかし、この時に大ドイツ主義と小ドイツ主義が対立した
→・大ドイツ主義・・オーストリアのドイツ人地域とベーメンを含む
統一方式を推す主義のこと
・小ドイツ主義・・プロイセンを中心に、オーストリアを排除して行う
ドイツ統一方式を推す主義のこと
→結果的に、小ドイツ主義の憲法がまとめられた
※この時に、プロイセン王をドイツ皇帝に推した
=しかし、王の拒否にあって、失敗に終わってしまった
・その後、統一の主導者は自由主義者から、プロイセンの政府や軍部を支配する
保守的なユンカー層に移った
※そのため、ユンカー出身のビスマルクという人が、1862年にヴィルヘルム1世から
首相に任じられた
→その結果、議会の反対を押し切って軍備を拡大するということが起きた
=これを、鉄血政治という
※ビスマルクが1862年の議会演説から、鉄血政治と呼ばれるようになった
・プロイセンは、デンマークから奪ったシュレスヴィヒとホルシュタインの
両方の州の処分に関して、プロイセン=オーストリア(普墺)戦争という戦争を
起こして、オーストリアと戦った
→1866年にプロイセンは、オーストリアを倒した
=その結果、プロイセンは以下のような動きを見せた
・ドイツ連邦を解体した
・1867年にプロイセンを盟主とする北ドイツ連邦を作り上げた
※この時に、南ドイツの諸邦もプロイセンと同盟した
=そのため、統一が完成に近づいた
※当時のオーストリアについて
・オーストリアはドイツから除外された
・1867年にマジャール人のハンガリーを王国と認める
妥協(アウスグライヒ)を行った
・同君連合としてのオーストリア=ハンガリー帝国に再編した
・しかし、多民族国家として、民族問題を抱え続けていた
・フランスのナポレオン3世は、プロイセンの強大化を恐れた
→そのため、スペインの王位継承問題という問題をきっかけに、
1870年7月にプロイセン=フランス戦争を始めた
=しかし、ナポレオン3世は、9月にはフランス北部のスダン(セダン)で捕虜になった
※そのため、この時に第二帝政が廃止されることになった
→戦争は、1871年にフランスにとって厳しい条件で終了した
※実際にフランスは、以下のような行動を取った
・アルザスとロレーヌの両方の州をドイツに譲った
・莫大な賠償金が課せられた
ポイント
・ドイツの統一の動きと流れについておさえる
このあたりが今回のポイントです