ドイツ帝国の誕生とビスマルクの外交について
ドイツ帝国の誕生とビスマルクの外交について考えてみます
・ドイツ帝国の誕生とビスマルクの外交について
・1871年の1月に、ヴィルヘルム1世はヴェルサイユでドイツ皇帝の位についた
=その結果、ドイツ帝国が誕生した
※ドイツ帝国は連邦制で、プロイセン王がドイツ皇帝を兼ねていた
→ドイツ帝国について
・帝国議会は、男性普通選挙制で選ばれた
・帝国の宰相は皇帝についてだけ責任を負った
→そのため、帝国議会は無力だった
・帝国の宰相は、ビスマルクという人が約20年間担当し、
半ば独裁的な権力をふるっていた
※ビスマルクは、南ドイツで有力なカトリック教徒を警戒していた
→そのため、ビスマルクは文化闘争というのを始めて、カトリック教徒をおさえつけた
・一方で、工業発展と同時に労働者階級が増えた
→これらの労働者階級は、専制政治を批判する社会主義運動が勢力をのばしていった
・ドイツの社会主義運動は、1860年代にラサールという人の指導で始まった
→その後、ベーベルなどによるマルクス主義の運動が出てきた
=そして、1875年にラサールとベーベルが合同して、後の社会民主党を作った
※最初は社会主義労働者党という名前で、1890年に正式に社会民主党になった
・ビスマルクは、社会主義運動を警戒していた
※この警戒をしていた裏で、1878年に皇帝狙撃事件というのが起きた
→そこでビスマルクは、社会主義者鎮圧法というのを制定して、社会主義政党を弾圧した
・一方でビスマルクは、災害保険や疾病保険などの社会保険制度を行った
※この制度の背景には、労働者を統合させるという狙いがあった
→この制度に加えて、保護関税政策を行ってドイツ帝国の工業化を進めていった
・ビスマルクは、外交面で以下のようなことを行った
→・フランスを孤立させて、ドイツの安全を確保することを考えた
→そこでビスマルクは、クリミア戦争以降崩れていたヨーロッパの
列強の体制を再構築した
・1873年に、ドイツ、オーストリア、ロシアの3国で、三帝同盟という同盟を結んだ
※しかし、ロシアはバルカンでパン=スラヴ主義というのを利用して
勢力の拡大を狙った
=その結果、ロシアはオーストリアと対立するようになった
※パン=スラヴ主義・・バルカン系のスラヴ民族の団結によって、
オスマン帝国からの独立を目指す運動のこと
・1875年に、オスマン帝国の支配下のボスニア・ヘルツェゴヴィナのギリシア正教徒が
反乱を起こすということが起きた
→すると、ロシアは1877年に、ロシア=トルコ戦争というのを起こして、
オスマン帝国と戦った
※この時は、ロシアが勝利した
→その後、1878年のサン=ステファノ条約でブルガリアをロシアの保護下に置いた
=結果的に勢力の拡大に成功した
※しかし、ロシアの勢力の拡大に、イギリスとオーストリアが反対した
→そこで、ビスマルクがベルリン会議という会議を開いて、各国の利害を調整した
=その結果、サン=ステファノ条約が破棄され、新しくベルリン条約というのが結ばれた
※ベルリン条約では、以下のようなことが決められた
・ロシアの勢力がおさえられた
・ルーマニア、セルビア・モンテネグロの独立が認められた
・ブルガリアは、オスマン帝国内の自治国になった
・イギリスがキプロスの統治権を獲得した
・オーストリアがボスニア・ヘルツェゴヴィナの統治権を獲得した
=上のような動きの結果、以下のような行動が取られた
・ドイツの国際的な力が強くなった
・ロシアが一時的に南下政策を控えた
・その代わり、ロシアが中央アジアや東アジアへの進出を目指すようになった
・1881年に新三帝同盟が成立した
・ビスマルクは、イタリアを誘って、1882年にドイツ、オーストリア、イタリアの
三国同盟を結んだ
※ビスマルクは、イタリアがフランスによるチュニジアの保護国化に
不満を持っていたことを知って誘った
・1887年に、オーストリアとロシアの対立が激しくなって三帝同盟が消滅する
ということが起きた
→そこでドイツは、1887年にドイツとロシアとの間で再保障条約という条約を結んだ
※この条約によって、フランスの包囲を狙った
=上のような、ドイツの安全を目指すために様々な同盟を結ぶ体制を、ビスマルク体制という
ポイント
・ドイツ帝国の誕生をおさえる
・ビスマルクの外交の内容と他の国のそれぞれの動きをおさえる
このあたりが今回のポイントです