オスマン帝国支配の動揺とオスマン帝国の改革について
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オスマン帝国支配の動揺とその改革について考えてみます
・オスマン帝国支配の動揺について
・16世紀にオスマン帝国の領土は、アジア、ヨーロッパ、アフリカに拡大していった
※同じころにポルトガル人のインド洋海域への侵入が始まった
→そして、インド洋の制海権はイギリスの手に渡った
→また、17世紀にはイギリス東インド会社の商館がペルシア湾に近いバスラに設けられた
=そして、サファヴィー朝のアッバース1世という人は、東インド会社の協力を得て、
ポルトガルの勢力をペルシア湾のホルムズ島から追い払うということを行った
・17世紀に、オスマン帝国が第2次ウィーン包囲の失敗ということを起こした
※この失敗は、オスマン帝国に致命的な打撃をもたらしたと言われている
→その後、1699年にカルロヴィッツ条約という条約を結んだ
=この条約によって、オスマン帝国はハンガリーやトランシルヴァニアなどを
オーストラリアに割譲した
※さらに、18世紀の後半にはロシアとの戦いに大敗したため、
オスマン帝国は黒海の北岸を奪われた
・17世紀以後に、以下のようなことが起きた
→・オランダが東南アジアに進出した
・インドがイギリスの支配下に組み込まれた
・オスマン帝国がバルカンの領土を次々に失っていった
→その結果、帝国内のアジア・アフリカ領でも、アラブ人を始めとして
民族的な自覚が起こった
=そして、オスマン帝国からの自立を求める新しい運動が始まった
※当時は、オスマン帝国をめぐって、ヨーロッパ列強の利害は複雑にからみあっていた
→その中で、様々な民族の自立と列強の進出によって、オスマン帝国の領土は
どんどん縮小していった
・オスマン帝国の改革について
・19世紀の初め以降から、オスマン帝国はイェニチェリ軍団の解散など
様々な改革を行っていた
→その中でオスマン帝国は、アブデュル=メジト1世という人が
タンジマートを実施した
※タンジマート・・司法、行政、財政、軍事の徹底した西欧化改革のこと
→タンジマートという改革によって、以下のようなことが起きた
・オスマン帝国が、伝統的なイスラーム国家から、法治主義にもとづく近代国家へと体制を一新した
・一方で、ヨーロッパ工業製品の流入が土着産業の没落を促した
※そのため、外国資本への従属がかえってすすんだ
・一方で、クリミア戦争後に、オスマン帝国内で立憲制への要求が高まってきた
→すると、1876年に当時の宰相だったミドハトはアジアで最初の憲法である
ミドハト憲法を発布した
※しかし、ロシア=トルコ戦争という戦争が勃発した時に、
アブデュル=ハミト2世という人は、この戦争を口実に憲法を停止して、
議会を閉鎖するということをした
※また、ロシア=トルコ戦争でオスマン帝国は敗北した
=その結果、1878年にベルリン条約を結んで、
ヨーロッパ側の領土の半分以上を一気に失うことになった
ポイント
・オスマン帝国の動揺についておさえる
・オスマン帝国の改革についておさえる
このあたりが今回のポイントです