1848年の革命について
1848年の革命について考えてみます
・1848年革命について
・1840年代の後半にヨーロッパの国々は、凶作と不況に見舞われた
→そのため、1848年には、多くの地域で労働者や下層民衆の革命的な動きが見られた
・フランスでは、七月革命以後に産業革命が本格化した
→この時は、銀行家などの一部の富裕層だけが優遇され、選挙権を持たない中小資本家や労働者の不満が強くなった
・1848年2月に、選挙法改正の要求が拒否されるということが起きた
→この拒否をきっかけに、パリで革命が起きた
※この時に、国王のルイ=フィリップという人は亡命し、第二共和政という共和政の臨時政府が樹立された
=この一連の動きを二月革命という
・第二共和政の臨時政府には、社会主義者も加わった
※しかし、農民の多くは、社会主義政策で土地を失うことを恐れていた
→そのため、男性普通選挙制による4月の選挙で、社会主義者が大敗することになった
=結果的に、有産者層を代表する穏健共和派の政府が成立した
・穏健共和派の政府に対して、パリの労働者が蜂起を起こした
=しかし、この蜂起はすぐに鎮圧された
※なぜ、蜂起が起きたのか
・社会主義者、労働者の代表としてルイ=ブランなどが臨時政府に参加して、国立作業場が設けられていた
・しかし、国立作業場が財政負担のために廃止されることになった
→この廃止が、1848年6月の蜂起の原因となった
・1848年12月の大統領選挙では、ナポレオン1世の甥にあたる、ルイ=ナポレオンという人が当選した
※ルイ=ナポレオンは、1851年にクーデタを起こして独裁権を握った
→そして、1852年の国民投票で皇帝になって、自分をナポレオン3世と称した
=この時の政治体制を、第二帝政という
・二月革命の影響は、ドイツやオーストリアに波及して、三月革命となった
→三月革命にによって、以下のような影響が出てきた
・ウィーンでは、1848年3月に蜂起が起こり、メッテルニヒが失脚した
・ベーメン、ハンガリー、イタリアで民族運動が活発化した
→そのため、「諸国民の春」と呼ばれる状況になった
・1848年3月にベルリンでも民衆の蜂起が起きた
→そこで、ベルリンの国王は譲歩して、自由主義的内閣を認めた
・ドイツ諸邦の自由主義者は、ドイツ統一と憲法の制定のためにフランクフルト国民議会を開いた
=以上のような流れを受けて、ウィーン体制は崩壊した
・ウィーン体制後は、以下のような動きが見られた
→・各地の革命運動がすぐに鎮圧された
※コシュートという人が指導したハンガリーの反乱に対して鎮圧に貢献したロシアが、反革命勢力の中心になった
→そのため、ロシアは「ヨーロッパの憲兵」と呼ばれた
・プロイセンの国王が改革を阻止したが、1850年に欽定憲法が発布されることになった
・イギリスで、チャーティスト運動が最後の盛り上がりを見せた
=上のような一連の動きを、1848年革命という
※1848年革命は、ヨーロッパ全域に広がっていった
・しかし、1848年革命以後、西欧と東欧で別々の動きが見られた
→・西欧諸国・・自由主義や民主主義政治革命が起きた
・東欧諸国・・ナショナリズムによる民族自立が主要な目標になった
=結果的に、西欧と東欧の違いがはっきりと見えるようになってきた
→そのため、それぞれが異なる方向に進むことになった
ポイント
・1848年革命の流れと、各地への影響についておさえる
このあたりが今回のポイントです