ウィーン会議について
ウィーン会議について考えてみます
・ウィーン会議について
・1814年から1815年にかけて、フランス革命とナポレオン戦争の戦後の処理のために、
オスマン帝国以外の全てのヨーロッパの支配者が参加する国際会議というのが、
ウィーンで開かれた
・会議では、オーストリア外相(のちの宰相)であるメッテルニヒという人が議長として、
対立する各国の利害を調整していった
※しかし、基本的には列強間の合意によって決定されていた
→ウィーン会議の時には、以下のような動きが見られた
・正統主義によって、フランスやスペインでブルボン王家が復活した
※正統主義とは、当時のフランスの外相のタレーランという人提唱した、
フランス革命前の王朝と旧制度の復活を目指す理念のこと
→ただし、現実では大国の利害が優先されたため、正統主義が無視されることが多かった
・一方で、大国間の勢力の均衡がはかられた
・ロシア皇帝が、ポーランドの王を兼ねることになった
・プロイセンが東西に領土を拡大した
・イギリスが、旧オランダ領のスリランカ(セイロン島)とケープ植民地の領有を認められた
・立憲王国になったオランダは、旧オーストラリア領ネーデルラント(ベルギー)を譲られた
・オーストリアは、北イタリアを得た
・スイスは永世中立国になった
・ドイツでは、神聖ローマ帝国が復活しなかった
→その代わり、オーストリア、プロイセン以下35の君主国と4つの自由都市からなるドイツ連邦が組織された
=これら一連の動きによる世界の国際秩序を、ウィーン体制という
※ウィーン体制は、現状維持を目指すものだった
・19世紀の世界では、イギリスが自分の国の経済的な繁栄と圧倒的な海軍力を背景に、
強力な影響力を持つことで、比較的平和が保たれていた
=このような世界の状況を、パックス=ブリタニカという
※当時、イギリスにならんで、ヨーロッパの国際秩序を支えたのが、
大きな陸軍を持つロシアだった
→当時のロシアの皇帝のアレクサンドル1世が提唱した神聖同盟というのには、
多くの君主が参加した
→さらにロシアは、イギリス、プロイセン、オーストリアと1815年に四国同盟を結んだ
※四国同盟は、1818年にフランスも加わって、五国同盟を結んだ
ポイント
・ウィーン体制の内容についておさえる
・ナポレオン没後の世界の様子についておさえる
このあたりが今回のポイントです