ウィーン会議について

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投稿者:       投稿日時:2013/10/16 15:12      
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ウィーン会議について考えてみます

 

 

・ウィーン会議について

 

 

 ・1814年から1815年にかけて、フランス革命とナポレオン戦争の戦後の処理のために、

  オスマン帝国以外の全てのヨーロッパの支配者が参加する国際会議というのが、

  ウィーンで開かれた

 

 ・会議では、オーストリア外相(のちの宰相)であるメッテルニヒという人が議長として、

  対立する各国の利害を調整していった

  ※しかし、基本的には列強間の合意によって決定されていた

  

 

  

 

 →ウィーン会議の時には、以下のような動きが見られた

 

  ・正統主義によって、フランスやスペインでブルボン王家が復活した

   ※正統主義とは、当時のフランスの外相のタレーランという人提唱した、

    フランス革命前の王朝と旧制度の復活を目指す理念のこと

    →ただし、現実では大国の利害が優先されたため、正統主義が無視されることが多かった

 

  ・一方で、大国間の勢力の均衡がはかられた

 

  ・ロシア皇帝が、ポーランドの王を兼ねることになった

 

  ・プロイセンが東西に領土を拡大した

 

  ・イギリスが、旧オランダ領のスリランカ(セイロン島)とケープ植民地の領有を認められた

 

  ・立憲王国になったオランダは、旧オーストラリア領ネーデルラント(ベルギー)を譲られた

 

  ・オーストリアは、北イタリアを得た

 

  ・スイスは永世中立国になった

 

  ・ドイツでは、神聖ローマ帝国が復活しなかった

   →その代わり、オーストリア、プロイセン以下35の君主国と4つの自由都市からなるドイツ連邦が組織された

 

  =これら一連の動きによる世界の国際秩序を、ウィーン体制という

   ※ウィーン体制は、現状維持を目指すものだった

 

 

 

 

 ・19世紀の世界では、イギリスが自分の国の経済的な繁栄と圧倒的な海軍力を背景に、

  強力な影響力を持つことで、比較的平和が保たれていた

  =このような世界の状況を、パックス=ブリタニカという

 

  ※当時、イギリスにならんで、ヨーロッパの国際秩序を支えたのが、

   大きな陸軍を持つロシアだった

   →当時のロシアの皇帝のアレクサンドル1世が提唱した神聖同盟というのには、

    多くの君主が参加した

   →さらにロシアは、イギリス、プロイセン、オーストリアと1815年に四国同盟を結んだ

    ※四国同盟は、1818年にフランスも加わって、五国同盟を結んだ

 

 

ポイント

・ウィーン体制の内容についておさえる

・ナポレオン没後の世界の様子についておさえる

 

このあたりが今回のポイントです

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