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	<title>アラエス &#187; 枢密院</title>
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	<description>－全ての人に学びの空間を－</description>
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	<item>
		<title>大日本帝国憲法と議会の始まりをまとめてみた</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/2429</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/2429#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 27 Jan 2014 03:15:20 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[橋本真夜中]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[明治時代前期]]></category>
		<category><![CDATA[伊藤博文]]></category>
		<category><![CDATA[内閣制度]]></category>
		<category><![CDATA[大日本帝国憲法]]></category>
		<category><![CDATA[天皇中心]]></category>
		<category><![CDATA[帝国議会]]></category>
		<category><![CDATA[教育勅語]]></category>
		<category><![CDATA[枢密院]]></category>
		<category><![CDATA[民党]]></category>
		<category><![CDATA[衆議院議員総選挙]]></category>
		<category><![CDATA[貴族院]]></category>

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		<description><![CDATA[国会開設を約束した政府は、伊藤博文などをヨーロッパに送って、ドイツの政治や制度を学んだ →帰国後、1885年に内閣制度を確立して、初代の内閣総理大臣になった ※その後、伊藤博文を中心に憲法案が作られた →この憲法案は、枢 [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/2429">大日本帝国憲法と議会の始まりをまとめてみた</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>国会開設を約束した政府は、<strong>伊藤博文</strong>などをヨーロッパに送って、ドイツの政治や制度を学んだ</p>
<p>→帰国後、1885年に<strong>内閣制度</strong>を確立して、初代の内閣総理大臣になった</p>
<p>※その後、伊藤博文を中心に憲法案が作られた</p>
<p>→この憲法案は、<strong>枢密院</strong>で非公開で審議された後、1889年2月11日に天皇から国民に与える形で、<strong>大日本帝国憲法</strong>として出した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>※憲法の発布によって、以下のようなことが起きた</p>
<p>・天皇が軍隊の統率、外国との条約の締結など、憲法の規定に従って、大臣などの補佐により、国を統治した（＝天皇中心の国の仕組み）</p>
<p>・国会（<strong>帝国議会</strong>）は、<strong>衆議院</strong>と<strong>貴族院</strong>の二院制とした</p>
<p>・国会は、法律の制定、予算の決定などの権限もあった</p>
<p>・国民は、憲法によって、制限はあるが様々な権利が認められた</p>
<p>・アジアで唯一の、憲法と議会を持つ近代的な国家となった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>憲法と議会の整備の後、民法や地方自治制度が整備された</p>
<p>※最も有名なのは、<strong>教育勅語</strong>だった</p>
<p>→1890年に教育勅語が出され、天皇を中心とする国民の精神統一が目指された</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>議会では、1890年に最初の衆議院議員の総選挙が行われ、<strong>第1回帝国議会</strong>が開かれた</p>
<p>→衆議院は、自由民権派の影響を受ける<strong>民党</strong>（立憲自由党と立憲改進党）が多数だった</p>
<p>※当時の有権者は、直接国税15円以上を納める25歳以上の男子のみだった</p>
<p>&nbsp;</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/2429">大日本帝国憲法と議会の始まりをまとめてみた</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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		<item>
		<title>憲法の歴史について①　－明治憲法について－</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1812</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1812#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 17 Nov 2013 08:28:41 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[副店長]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本国憲法]]></category>
		<category><![CDATA[大日本帝国憲法]]></category>
		<category><![CDATA[帝国議会]]></category>
		<category><![CDATA[明治維新]]></category>
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		<category><![CDATA[法律の留保]]></category>
		<category><![CDATA[統帥権の独立]]></category>
		<category><![CDATA[臣民の権利]]></category>
		<category><![CDATA[自由民権運動]]></category>

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		<description><![CDATA[明治憲法について考えてみます &#160; &#160; ・明治憲法について &#160; 　※前提として、明治維新の後、日本で様々な憲法の案（私擬憲法）が作られたことを 　　押さえておく必要がある 　　→当時は、憲法を [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1812">憲法の歴史について①　－明治憲法について－</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>明治憲法について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・明治憲法について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　※前提として、明治維新の後、日本で様々な憲法の案（私擬憲法）が作られたことを</p>
<p>　　押さえておく必要がある</p>
<p>　　→当時は、憲法をもとにして政治を行っていた</p>
<p>　　　＝このように、憲法にもとづいてにして政治を行う事を、立憲主義という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　※明治維新の後の憲法に関する動きとして、自由民権運動という運動が活発だった</p>
<p>　　・自由民権運動・・国民の自由と権利、国会の開設、憲法の制定などを求めた運動のこと</p>
<p>　　</p>
<p>　　→自由民権運動を抑えること、明治維新以降の国の体制を整えること、などの目的から、</p>
<p>　　　国会を開設することと憲法を作ることを急いだ</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１８８９年（明治２２年）に、明治天皇によって大日本帝国憲法（明治憲法）が制定された</p>
<p>　　※大日本帝国憲法は欽定憲法だった（反対を民定憲法と言う）</p>
<p>　　　・欽定憲法・・君主（天皇や王様など、その国で最も位の高い人のこと）が</p>
<p>　　　　　　　　　　決めた憲法のこと</p>
<p>　　　・民定憲法・・国民が決めた憲法のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・大日本帝国憲法では、基本的人権や社会契約説などの考え方はなく、</p>
<p>　　「臣民の権利」という考え方だった</p>
<p>　　※臣民の権利は、基本的人権のように生まれながらに平等という感覚ではなかった</p>
<p>　　　→そのため、臣民（天皇以外の国民）の権利というのは、</p>
<p>　　　　法律で制限される部分があった</p>
<p>　　　　＝このような状態を、法律の留保と呼んだ</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・立法、行政、司法の権利は、統治権を全て引き受けている人（＝天皇）の名前で使われた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>　・外交権や統帥権は天皇大権（天皇が使えた権利のこと）だった</p>
<p>　　※特に、統帥権（軍の最高指揮権のこと）に関しては議会や内閣が</p>
<p>　　　意見することができなかった</p>
<p>　　　＝そのため統帥権は、統帥権の独立と言われた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・明治憲法では、天皇の直接的な支配が基本だったが・・・</p>
<p>　　・立法権は、帝国議会の協賛（帝国議会が同意の意思を表示すること）によって</p>
<p>　　　実際に使われた</p>
<p>　　・行政権は、国務大臣の輔弼（天皇が行政を行う時に助言すること）によって</p>
<p>　　　実際に使われた</p>
<p>　　・帝国議会の衆議院を通じて、臣民が政治に参加出来た</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　</p>
<p>　・一方で・・</p>
<p>　　・衆議院とほぼ同じような権限を持っていた貴族院によって、</p>
<p>　　　衆議院の力が抑えつけられていた</p>
<p>　　・枢密院や軍部などが強い力を持っていた</p>
<p>　　　→以上のように、明治憲法のもとでは、複雑で自分達の権限を守りながら</p>
<p>　　　　勢力を拡大する仕組みがあった</p>
<p>　　　※枢密院・・天皇の最高諮問機関（天皇が意見を聞くための人達の中で、</p>
<p>　　　　　　　　　最も位の高い機関のこと）であり、国務の審議を行った</p>
<p>　　　　　　　　　また、枢密院は政党や議会政治の監視なども行った</p>
<p>&nbsp;</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1812">憲法の歴史について①　－明治憲法について－</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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		<item>
		<title>協調外交の転換について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1299</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1299#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 28 Oct 2013 07:31:41 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[ゴンショウ]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[昭和時代・第二次世界大戦]]></category>
		<category><![CDATA[ロンドン海軍軍縮会議]]></category>
		<category><![CDATA[ロンドン海軍軍縮条約]]></category>
		<category><![CDATA[幣原喜重郎]]></category>
		<category><![CDATA[日中関税協定]]></category>
		<category><![CDATA[枢密院]]></category>
		<category><![CDATA[浜口雄幸]]></category>
		<category><![CDATA[海軍軍令部]]></category>
		<category><![CDATA[統帥権]]></category>
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		<description><![CDATA[協調外交の転換について考えてみます &#160; &#160; ・強調外交の転換について &#160; &#160; 　・浜口雄幸内閣は、協調外交の考え方を復活させようとした 　　→そのため、外務大臣に幣原喜重郎をもう一 [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1299">協調外交の転換について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>協調外交の転換について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・強調外交の転換について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・浜口雄幸内閣は、協調外交の考え方を復活させようとした</p>
<p>　　→そのため、外務大臣に幣原喜重郎をもう一度使った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・日本は、中国との関係を改善することを考えた</p>
<p>　　→そのため、１９３０年に中国と日中関税協定という協定を結んだ</p>
<p>　　　※この時に、条件付きではあるが中国に関税自主権を認めさせた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・当時の日本は軍縮の方針があった</p>
<p>　　→そのため、日本は１９３０年に、ロンドン海軍軍縮会議という会議に参加した</p>
<p>　　　＝この会議で決められた条約を、ロンドン海軍軍縮条約という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※ロンドン海軍軍縮条約の内容</p>
<p>　　　　・ワシントン海軍軍縮条約の時に決められた主力艦の建造の禁止を５年延長した</p>
<p>　　　　・ワシントン海軍軍縮条約の時に除外された補助艦（潜水艦、巡洋艦、駆逐艦）の</p>
<p>　　　　　保有量が決められた</p>
<p>　　　　・ワシントン海軍軍縮条約の日本の要求だったイギリスとアメリカの補助艦の</p>
<p>　　　　　保有率を約７割にすることを認められた</p>
<p>　　　　・一方で、大型巡洋艦のアメリカの保有量に対する日本の保有量を</p>
<p>　　　　　７割をキープすることは認められなかった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→このような内容で、政府は条約の調印を行った</p>
<p>　　　</p>
<p>　　　※ただし、海軍軍令部の部長は反対していた</p>
<p>　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・これに対して、野党立憲政友会、海軍軍令部、右翼などが、</p>
<p>　　海軍軍令部の部長の反対を押し切って政府が兵力の量を決めたのは、</p>
<p>　　統帥権の干犯であるとして、激しい攻撃をした</p>
<p>　　＝この問題を、統帥権干犯問題という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※統帥権の干犯について</p>
<p>　　　　・統帥権（軍の最高指揮権）は天皇が持っている</p>
<p>　　　　・統帥権は内閣が担当する一般国務から独立している</p>
<p>　　　　・統帥権を発動させるためには、参謀本部の総長と海軍軍令部の部長が直接関わった</p>
<p>　　　　・ロンドン海軍軍縮条約を認める時には、枢密院の承認が必要だった</p>
<p>　　　　　→政府は、海軍軍令部と枢密院の２つの国家機構との対決を</p>
<p>　　　　　　せまられることになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　</p>
<p>　・政府は、枢密院に同意してもらってロンドン海軍軍縮条約を</p>
<p>　　調印してもらうことに成功した</p>
<p>　　※しかし、同年１１月に浜口雄幸首相が東京駅で、右翼の青年に狙撃されて</p>
<p>　　　重傷になるという出来事が起きた</p>
<p>　　　→この出来事の次の年に、浜口雄幸内閣が終了して、その後すぐに浜口雄幸が死亡した</p>
<p>　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・強調外交に関する日本の様子を押さえる</p>
<p>&nbsp;</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1299">協調外交の転換について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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	</item>
		<item>
		<title>戦後恐慌と金融恐慌について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1296</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1296#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 28 Oct 2013 07:07:54 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[ゴンショウ]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[昭和時代・第二次世界大戦]]></category>
		<category><![CDATA[モラトリアム]]></category>
		<category><![CDATA[取付け騒ぎ]]></category>
		<category><![CDATA[戦後恐慌]]></category>
		<category><![CDATA[枢密院]]></category>
		<category><![CDATA[片岡直温]]></category>
		<category><![CDATA[若槻礼次郎]]></category>
		<category><![CDATA[財閥]]></category>
		<category><![CDATA[金融恐慌]]></category>
		<category><![CDATA[金輸出禁止]]></category>
		<category><![CDATA[関東大震災]]></category>

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		<description><![CDATA[戦後恐慌と金融恐慌について考えてみます &#160; &#160; ・戦後恐慌と金融恐慌について &#160; &#160; 　・第一次世界大戦が終わって、ヨーロッパの国々の復活が進んできたため、 　　ヨーロッパの商品が [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1296">戦後恐慌と金融恐慌について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>戦後恐慌と金融恐慌について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・戦後恐慌と金融恐慌について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・第一次世界大戦が終わって、ヨーロッパの国々の復活が進んできたため、</p>
<p>　　ヨーロッパの商品がアジアの市場に出てきた</p>
<p>　　→その結果、日本は第一次世界大戦の時の好景気とは違い、</p>
<p>　　　経済が苦しい状況になってしまった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１９１９年からは、貿易について輸入量が輸出量を超えてしまった（輸入超過）</p>
<p>　　→そのため、特に重化学工業の分野では、国内の生産がダメージを受けた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１９２０年に、株式が大暴落するということが起きた</p>
<p>　　＝この大暴落をきっかけに起きた恐慌を、戦後恐慌という</p>
<p>　　　※この時に、綿糸や生糸の相場が半額以下に暴落した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１９２３年に、関東大震災という大きな地震が発生した</p>
<p>　　→この時に、銀行は手持ちの手形を処理することができなくなってしまった</p>
<p>　　　※この状況に対して、政府は日本銀行に特別にお金を出させて、一時的にしのいだが、</p>
<p>　　　　不況が強引に続いたため手形（当時は震災手形と呼んだ）を処理することが</p>
<p>　　　　なかなか出来なかった</p>
<p>　　　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・その後、１９２７年に議会で震災手形を処理する法案について、</p>
<p>　　議論がされるようになった</p>
<p>　　→その時に、当時の大蔵大臣（現在の財務大臣）だった片岡直温という人が失言をした</p>
<p>　　→そのため、一部の銀行のダメな経営状態がバレてしまい、取付け騒ぎが起きたため、</p>
<p>　　　休業する銀行が続出した</p>
<p>　　　＝この時の恐慌を、金融恐慌という</p>
<p>　　　　※取付け騒ぎ・・預金者が銀行に不安を抱いたため、</p>
<p>　　　　　　　　　　　　預金者が自分の預金を手元に戻そうとすること</p>
<p>　　　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→金融恐慌が起きた時の首相だった若槻礼次郎という人は、</p>
<p>　　　経営が破たんした鈴木商店という総合商社に対する</p>
<p>　　　大量の不良債権（貸し付けたが回収できそうにないお金）を抱えた台湾銀行を</p>
<p>　　　助けるために、緊急の命令を出そうとした</p>
<p>　　　＝しかし、この命令を枢密院が認めなかったため、若槻礼次郎内閣は総辞職になった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※鈴木商店について</p>
<p>　　　　・鈴木商店という総合商社は、貿易を中心に経営を行っていた</p>
<p>　　　　・鈴木商店は、第一次世界大戦の時に台湾銀行という銀行からのお金に</p>
<p>　　　　　支えられて急成長した</p>
<p>　　　　・しかし、戦後不況によって、鈴木商店は死にかけの状態になった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→若槻礼次郎内閣の後に、立憲政友会の田中義一という人が首相になった</p>
<p>　　　・田中義一内閣は、３週間のモラトリアム（支払猶予令）を出して、</p>
<p>　　　　日本銀行から大量のお金を様々な銀行に流した</p>
<p>　　　　＝その結果、金融恐慌がなんとか鎮まった</p>
<p>　　　　　※モラトリアム・・借金の支払いを一時的に引き延ばすこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>・当時の経済面からの日本の様子について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１９２０年代の日本経済は、電力関連の重化学工業が発展したものの、</p>
<p>　　慢性的な不況の状態が続いていた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>　・政府は何度も来た恐慌に対して、基本的にお金を大量に発行する</p>
<p>　　という政策を取ってきた</p>
<p>　　※しかし、この政策は経済の危機的な状況を一時的に回避しただけだった</p>
<p>　　　→そのため、第一次世界大戦中にパニックになった経済を</p>
<p>　　　　簡単に復活させることはできなかった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・日本は、工業の国際競争力が無く、物価が上昇する傾向にあったため、</p>
<p>　　輸入が増え続ける状況だった</p>
<p>　　→さらに、１９１７年以降から様々な国で金輸出禁止の政策を取り始め、</p>
<p>　　　外国為替相場が不安定な状態で下落し続けるという状況が起きた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・多くの産業の分野で企業の集中やカルテルの結成、資本の輸出などが起きた</p>
<p>　　※資本の輸出に関しては、大きな紡績会社が中国に在華紡という工場を</p>
<p>　　　作っていったことが代表的だと言われている　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・財閥がこの時期から、金融や流通の面を上手にコントロールして、</p>
<p>　　産業を支配していこうとした</p>
<p>　　※さらに、財閥は政党ともつながりを持って、政治に影響を与えて行こうとした</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　→財閥の具体的な動きについて</p>
<p>　　　　・金融恐慌の時に中小の銀行の整理や合併が行われた</p>
<p>　　　　　→そのため、預金が大銀行に集中するようになった</p>
<p>　　　　　　＝結果的に、三井、三菱、住友、安田、第一の５大銀行が</p>
<p>　　　　　　　支配する地位にまでのぼりつめた</p>
<p>　　　　・三井は立憲政友会とつながり、三菱は憲政会（立憲民政党）とつながった</p>
<p>　　　　　→このつながりは当時は有名で、政党に反発する原因の一つになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　→以上のようにして、独占の資本や金融の資本が経済を支配するような状況になっていった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※一方で、大企業や農村から追い出された労働力を使って、</p>
<p>　　　中小企業が増える例も見られた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・戦後恐慌と金融恐慌について押さえる</p>
<p>・当時の経済面からの日本の様子について押さえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p>
<p>&nbsp;</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1296">戦後恐慌と金融恐慌について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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		<item>
		<title>大日本帝国憲法について　－出来るまでの流れ－</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1258</link>
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		<pubDate>Sun, 27 Oct 2013 22:23:50 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[副店長]]></dc:creator>
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		<category><![CDATA[華族令]]></category>

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		<description><![CDATA[大日本帝国憲法を中心に当時の様子を考えてみます &#160; &#160; ・憲法の誕生について &#160; &#160; 　・政府は、明治十四年の政変の時に、天皇と政府に権力が集中する憲法を作ることを決めた 　　→そ [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1258">大日本帝国憲法について　－出来るまでの流れ－</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>大日本帝国憲法を中心に当時の様子を考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・憲法の誕生について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・政府は、明治十四年の政変の時に、天皇と政府に権力が集中する憲法を作ることを決めた</p>
<p>　　→そこで、１８８２年に伊藤博文などをヨーロッパに派遣して、憲法の調査をさせた</p>
<p>　　　※伊藤博文は、ベルリン大学のグナイストとウィーン大学のシュタインから</p>
<p>　　　　ドイツの憲法の理論を勉強して憲法を作る準備を始めた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・憲法を作るためにどのような準備を行ったのか</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１８８４年に、華族令という法律を作った</p>
<p>　　→この法律によって、以下のようなことが決められた</p>
<p>　　　・華族を公、侯、伯、子、男という５爵の身分階級に分けて、それぞれの資格を細かく決めた</p>
<p>　　　・国家に貢献した人は華族になれるようにした</p>
<p>　　　　＝華族令を作ることで、将来の上院（貴族院）を作ろうとしていた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１８８５年に太政官制をやめて、内閣制度にした</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→内閣制度によって、以下のような変化が起きた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　・それぞれの省の長官が国務大臣として自分の省の仕事に関して</p>
<p>　　　　天皇に直接責任を負うことになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　・国務大臣は、総理大臣のもとに閣議の一人として直接参加することになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　・宮中（天皇の住まい）の事務を担当する宮内省（宮内大臣）は、</p>
<p>　　　　内閣の外に置かれることになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　・天皇御璽（天皇の印）と日本国璽（日本国の印）を持っていて、</p>
<p>　　　　天皇の政治の補佐を担当する内大臣が宮中に置かれることになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　　→今までは区別がなかったものの、内閣制度によって、</p>
<p>　　　　　制度的に行政府と宮中が区別されることになった</p>
<p>　　　　　※ただし、初代総理大臣の伊藤博文は総理大臣と宮内大臣を両方担当した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・山県有朋という人が、ドイツ人顧問のモッセという人の助言をもらって、</p>
<p>　　地方制度を改革した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→どのような改革を行ったのか</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　・１８８８年に、市制と町村制という制度が作られた</p>
<p>　　　　※市制と町村制について</p>
<p>　　　　　・市制・・人口２万５千人以上の都市を市として、</p>
<p>　　　　　　　　　　市を郡と同じ行政区域にする制度のこと</p>
<p>　　　　　・町村制・・今までの町村を大量に合併させて新しい町村を作る制度のこと</p>
<p>　　　　　・市長は、市会という会が推薦する候補者の中から内務大臣が</p>
<p>　　　　　　任命することで決められた</p>
<p>　　　　　・市参事会というところが行政を行った</p>
<p>　　　　　・町村長は、基本的に無給だった</p>
<p>　　　　　・町村長は、公選で決められた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　・１８９０年に、府県制と郡制という制度が作られた</p>
<p>　　　　※府県制と郡制について</p>
<p>　　　　　・府県制・・府と県を統合する制度のこと</p>
<p>　　　　　・郡制・・郡長と郡参事会というところが行政を行い、町村会議員の投票と</p>
<p>　　　　　　　　　　大地主の互選によって選ばれる郡会が議決を</p>
<p>　　　　　　　　　　担当することにした制度のこと</p>
<p>　　　　　・府県会は郡会の議員の投票によって選ばれていた</p>
<p>　</p>
<p>　　→このような地方の改革で、地方自治の制度が一応誕生した</p>
<p>　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１８８６年に、政府の憲法草案（憲法の原案）を作る作業が、国民に極秘で行われた</p>
<p>　　→憲法草案は、ドイツ人顧問のロエスレルという人などの助言をもらいつつ、</p>
<p>　　　伊藤博文、井上毅、金子堅太郎、伊藤巳代治などが担当して作った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→この時の憲法の草案は、天皇が出席している状況のもとに枢密院という機関で作られた</p>
<p>　　　＝その結果、１８８９年２月１１日に大日本帝国憲法（明治憲法）が公布された</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※枢密院・・１８８８年に、憲法、条約、会計などについて、</p>
<p>　　　　　　　　　天皇が意見を求めてきた時に答えるために作られた機関</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・大日本帝国憲法が出来るまでの流れを押さえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p>
<p>&nbsp;</p></p>
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