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	<title>アラエス &#187; 漢</title>
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	<item>
		<title>秦と漢帝国と世界との関係について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/781</link>
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		<pubDate>Thu, 10 Oct 2013 00:17:11 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[マイコ]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[アジア・アメリカ古代史]]></category>
		<category><![CDATA[マルクス＝アウレリウス＝アントニウス]]></category>
		<category><![CDATA[ローマ帝国]]></category>
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		<description><![CDATA[秦と漢帝国と世界との関係について考えてみます &#160; &#160; ・秦と漢帝国と世界との関係について &#160; &#160; 　・春秋・戦国の動乱の時代を超え、秦と漢の時期に中国では皇帝を頂点とした 　　巨大 [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/781">秦と漢帝国と世界との関係について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>秦と漢帝国と世界との関係について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・秦と漢帝国と世界との関係について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・春秋・戦国の動乱の時代を超え、秦と漢の時期に中国では皇帝を頂点とした</p>
<p>　　巨大な規模の国家が作られた</p>
<p>　　※秦と漢の時期の皇帝統治は、官僚制と儒学に支えられていた</p>
<p>　　　→このような統治は、その後２０世紀初めの清朝の滅亡に至るまでの二千年あまりの間、</p>
<p>　　　　中国の国家体制の基本になった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・中国の存在は、当時のインドなどを通して西方にも知られるようになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※現在の欧米で中国をチャイナ（英語）、シィン（フランス語）などと呼んでいるのは、</p>
<p>　　　語源をたどると、王朝の名前である「秦」から来ている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※また、今日漢字を使う文化圏で、「漢族」「漢字」などというように、</p>
<p>　　　「漢」という王朝の名前は、現在でも中国の文化を代表する語として用いられている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・当時は、中国側でも世界に対する知識が広がっていった</p>
<p>　　→特に、西域に派遣された前漢の張騫や後漢の班超によって、</p>
<p>　　　西方の事情が中国に伝わってきた</p>
<p>　　　※この時に、ローマ帝国（大秦）という国の存在も知られるようになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・２世紀の中ごろには、ローマ皇帝（中国の史料では「大秦王安敦」）が中国に派遣した使節が</p>
<p>　　海路で日南郡（現在のベトナム中部）に至ったと言われている</p>
<p>　　※大秦王安敦は、マルクス＝アウレリウス＝アントニヌスのことだと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・東アジア内部の周辺の地域との交流も盛んになっていった</p>
<p>　　→その首長に、国王などの称号を与えて、皇帝中心の秩序のなかに</p>
<p>　　　位置づけられることが行なわれるようになった</p>
<p>　　　※倭人（日本人）の使者が光武帝から「漢委奴国王」の金印を受けていることは、</p>
<p>　　　　その一つの例だと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・秦と漢帝国と世界との関係についておさえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/781">秦と漢帝国と世界との関係について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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		<item>
		<title>漢代の社会と文化について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/780</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/780#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 10 Oct 2013 00:13:55 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[マイコ]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[アジア・アメリカ古代史]]></category>
		<category><![CDATA[五経]]></category>
		<category><![CDATA[史記]]></category>
		<category><![CDATA[官吏登用法]]></category>
		<category><![CDATA[官学]]></category>
		<category><![CDATA[漢]]></category>
		<category><![CDATA[紀伝体]]></category>
		<category><![CDATA[編年体]]></category>
		<category><![CDATA[董仲舒]]></category>
		<category><![CDATA[訓詁学]]></category>
		<category><![CDATA[陰陽五行]]></category>

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		<description><![CDATA[漢代の社会と文化ついて考えてみます &#160; &#160; ・漢代の社会と文化について &#160; &#160; 　・中国では、春秋・戦国時代に氏族制度が崩れて以来、 　　５～６人程度の小家族によって行われる農業経 [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/780">漢代の社会と文化について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>漢代の社会と文化ついて考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・漢代の社会と文化について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・中国では、春秋・戦国時代に氏族制度が崩れて以来、</p>
<p>　　５～６人程度の小家族によって行われる農業経営が中国の経済を支えていた</p>
<p>　　※秦と漢の国家が理想としたのも、皇帝が官僚を使って</p>
<p>　　　小家族の農民たちを直接おさめる体制だった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　→実際には、飢饉、徭役、重い税が理由で、土地を売って没落する農民も多かった</p>
<p>　　　　＝この時に、多くの土地を買い集めた豪族は、没落した農民を奴隷や小作人として</p>
<p>　　　　　支配下に入れて勢力をのばした</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※皇帝は、豪族の土地所有を制限しようとする政策をとったものの、</p>
<p>　　　　効果は得られなかった</p>
<p>　　　　＝結果的に、地方の長官の推薦による官吏登用法（郷挙里選）によって、</p>
<p>　　　　　勢力のある豪族は官僚となって国の政治に進出した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・漢代の初めに、法家や道家の思想が力を持った</p>
<p>　　→武帝の時代は、董仲舒という人の提案によって、儒学が官学になった</p>
<p>　　　＝その結果、礼と徳の思想を重視することによる社会秩序の安定化が目指された</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→儒学の主な経典として、五経が定められた</p>
<p>　　　※特に、後漢の時代には、鄭玄などの学者による訓詁学というのが発展して、</p>
<p>　　　　経典の詳しい注釈書が作られた</p>
<p>　　　※五経・・一般的に、「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」の５つを指す</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→一方で、陰陽五行の考え方も広く信じられるようになった</p>
<p>　　　※この考え方は、王朝の交替の説明に用いられるなど、</p>
<p>　　　　政治的にも大きな影響力があった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・当時の書物は、主に竹簡に書かれていた</p>
<p>　　→その後、後漢の時代に製紙技術が改良されたため、紙が次第に普及していった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・文字は、今日の漢字と大差のない隷書というものに統一された</p>
<p>　　※この時に、辞書も作られた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・漢代以前の歴史を伝えるもっとも重要な書物として、</p>
<p>　　武帝の時期の司馬遷という人がまとめた「史記」だった</p>
<p>　　→「史記」は、大昔から武帝の時期にいたるまでの歴史を紀伝体で書き、</p>
<p>　　　当時を生き生きと描いている</p>
<p>　　　※歴史書の書き方には、紀伝体と編年体の２種類がある</p>
<p>　　　　・紀伝体・・皇帝の事績（本紀）と功臣などの伝記（列伝）を中心とする歴史書の書き方</p>
<p>　　　　・編年体・・年月順に記す歴史書の書き方</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→「史記」とそれに続く後漢の班固という人が書いた「漢書」以後、</p>
<p>　　　紀伝体が中国の歴史書のもっとも基本的な形になった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・漢代の社会と文化についておさえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/780">漢代の社会と文化について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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		<item>
		<title>漢代の政治について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/779</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/779#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 10 Oct 2013 00:05:30 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[マイコ]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[アジア・アメリカ古代史]]></category>
		<category><![CDATA[光武帝]]></category>
		<category><![CDATA[党錮の禁]]></category>
		<category><![CDATA[劉秀]]></category>
		<category><![CDATA[呉楚七国の乱]]></category>
		<category><![CDATA[後漢]]></category>
		<category><![CDATA[武帝]]></category>
		<category><![CDATA[漢]]></category>
		<category><![CDATA[赤眉の乱]]></category>
		<category><![CDATA[郡国制]]></category>
		<category><![CDATA[黄巾の乱]]></category>

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		<description><![CDATA[漢代の政治について考えてみます &#160; &#160; ・漢代の政治について &#160; &#160; 　・高祖は、秦の都である咸陽というところの近くに、新しい都である長安というところを作った 　　※この時に、長安 [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/779">漢代の政治について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>漢代の政治について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・漢代の政治について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・高祖は、秦の都である咸陽というところの近くに、新しい都である長安というところを作った</p>
<p>　　※この時に、長安は秦の制度の多くを受け継いだ</p>
<p>　　　→そこで、秦の急激な統一政策の失敗があったことを反省として、郡国制を採用した</p>
<p>　　　　※郡国制・・郡県制と封建制を組み合わせた制度のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→しかし、その後朝廷は諸侯の権力を削ることを行った</p>
<p>　　　※その時に、それに対抗する人たちが出てきて、争いが起きた</p>
<p>　　　　＝紀元前１５４年におきたこの争いを、呉楚七国の乱という</p>
<p>　　　　　</p>
<p>　　→朝廷側は、呉楚七国の乱を鎮圧した後、実質的に郡県制と変わらない</p>
<p>　　　中央集権体制が成立してしまった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・紀元前２世紀後半に、武帝という人が社会を治めた</p>
<p>　　※この時の時代は、大規模な外国との戦争の時代だった</p>
<p>　　　</p>
<p>　　　→武帝は、北方で漢と戦っていた匈奴を倒し、領土を広げて、土地を開拓していった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　→また、大月氏と呼ばれる人たちと同盟を組んで匈奴を倒すために、</p>
<p>　　　　張騫という人を西域に派遣した</p>
<p>　　　　＝この出来事をきっかけに、タリム盆地というところのオアシスの様々な都市にまで</p>
<p>　　　　　支配を広げていった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　→東北では、衛氏朝鮮というところを倒して、</p>
<p>　　　　朝鮮の北部に楽浪などの４つの郡を置いた</p>
<p>　　　　※衛氏朝鮮・・紀元前２世紀に中国から逃げてきた衛満という人が、</p>
<p>　　　　　　　　　　　朝鮮の西北部に建てた国のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　→南側では、南越という国を倒して、ベトナム北部を武帝の支配下に入れていった</p>
<p>　　　　※南越・・秦の滅亡の時に、広東・広西からベトナム北部の地域に</p>
<p>　　　　　　　　　独立して出来た国のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　　＝以上のような、積極的な政策を行うことで、武帝は領土をより広げていった</p>
<p>　　　　　※しかし、一方で漢は財政難に陥ってしまった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→武帝は、財政難を乗り切るために、以下のようなことを行った</p>
<p>　　　・塩、鉄、酒の専売を行った</p>
<p>　　　・均輸、平準などの経済統制の政策を出した</p>
<p>　　　　※・均輸・・特産物を納めさせ、その物資が不足している地域に</p>
<p>　　　　　　　　　　転売するという物価調整法のこと</p>
<p>　　　　　・平準・・物資が豊富な時に貯蓄をし、物価が上がった時に物資を</p>
<p>　　　　　　　　　　売り出すという物価抑制法のこと</p>
<p>　　　　　　＝以上のようなことを行ったが、財政難の克服は失敗に終わった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・武帝の時期は、皇帝に権力が集中していた</p>
<p>　　→しかし、武帝の死後は、皇帝の側近だった宦官や外戚が実権を握ろうとして争っていた</p>
<p>　　　＝そのなかで、勢力をのばしてきた外戚の王莽という人が漢の皇帝を廃位して、新を作った</p>
<p>　　　　※・宦官・・後宮に仕える去勢された男性のこと</p>
<p>　　　　　・外戚・・皇后の親族のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・王莽は、儒教の理想だった周の時代の制度を復活させることを考えた</p>
<p>　　→そのため、実情に合わない急激な改革を行おうとした</p>
<p>　　　※その時に、各地で反乱が起き、新は倒れてしまった</p>
<p>　　　　＝この時の争いを、赤眉の乱という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・その後、動乱の中で漢の一族だった劉秀という人が豪族を連れて勢力を伸ばした</p>
<p>　　→この時に劉秀は、漢を復活させた</p>
<p>　　　※この時に復活した漢を後漢という</p>
<p>　　　　＝劉秀は、漢を復活させた時に、光武帝と呼ばれる皇帝になった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→光武帝は、都を洛陽に移した</p>
<p>　　　※その時に、国内の政治を重視する方針を採用して漢王朝を再び盛り上げようとした</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→しかし、その後は儒学を勉強して官界に出てきた豪族と、</p>
<p>　　　皇帝の側近である宦官や外戚との間で対立が深まった</p>
<p>　　　＝その結果、官僚や学者に対する弾圧など、党派争いが繰り返された</p>
<p>　　　　※この時の弾圧を、党錮の禁という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・２世紀の終わりに、宗教結社を中心とした黄巾の乱という争いが起きた</p>
<p>　　→その時、各地で群雄割拠（実力者が各地で勢力を張り、お互いに争いあうこと）が起きた</p>
<p>　　　＝その結果、２２０年に後漢が滅んでしまった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・漢の時代の流れと政治の様子をおさえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p>
<p>&nbsp;</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/779">漢代の政治について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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		<item>
		<title>秦の統一について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/776</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/776#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 09 Oct 2013 23:56:45 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[マイコ]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[アジア・アメリカ古代史]]></category>
		<category><![CDATA[中国]]></category>
		<category><![CDATA[劉邦]]></category>
		<category><![CDATA[始皇帝]]></category>
		<category><![CDATA[戦国の七雄]]></category>
		<category><![CDATA[漢]]></category>
		<category><![CDATA[秦]]></category>
		<category><![CDATA[郡県制]]></category>
		<category><![CDATA[項羽]]></category>
		<category><![CDATA[高祖]]></category>

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		<description><![CDATA[秦の統一について考えてみます &#160; &#160; ・秦の統一について &#160; &#160; 　・「戦国の七雄」の一つだった秦は、紀元前４世紀に商鞅の改革というので、国力をつけた 　　→そのため、秦は東方の６ [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/776">秦の統一について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>秦の統一について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・秦の統一について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・「戦国の七雄」の一つだった秦は、紀元前４世紀に商鞅の改革というので、国力をつけた</p>
<p>　　→そのため、秦は東方の６国をどんどん征服していって、紀元前２２１年に中国を統一した</p>
<p>　　　※秦の王の政治は、「王」に代わって、「光かがやく神」の意味を持つ「皇帝」という</p>
<p>　　　　称号を採用した</p>
<p>　　　　＝この時に始まった皇帝を、始皇帝という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→始皇帝は、以下のようなことを行っていた</p>
<p>　　　・自分の国内で行っていた郡県制という制度を、全国でも行った</p>
<p>　　　・直接中央から派遣した官吏におさめさせていた</p>
<p>　　　・貨幣、度量衡、文字などの統一を行った</p>
<p>　　　・焚書、坑儒などによって、思想の統制をさせていた</p>
<p>　　　　※焚書・・医薬、占い、農業関係以外の書物を全て焼くこと</p>
<p>　　　　　坑儒・・数百人の儒者を穴に埋めて殺すこと</p>
<p>　　　　</p>
<p>　　　　＝始皇帝は、以上のようなことを行うことで、皇帝権力の絶対化と中央集権化を進めた</p>
<p>　　　　　※始皇帝の陵の墓域に埋められた「兵馬俑」というのは、</p>
<p>　　　　　　始皇帝の権力の大きさを物語っていると言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・秦は、北方と南方で以下のようなことを行った</p>
<p>　　→・北方・・戦国時代からあった長城を修築して、匈奴と言われる人たちの侵入に対抗した　</p>
<p>　　　・南方・・華南を征服して、南海（現在の広州）など３郡をおいた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→上のような、急激な統一政策、対外戦争、土木工事の負担は人々を苦しめた</p>
<p>　　　※特に、秦に征服された東方６国の地域では、秦への反感が強まっていった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・始皇帝が死んだ後、各地で反乱が起きるようになっていった</p>
<p>　　＝反乱の結果、秦は統一して１５年で滅んでしまった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※最初に起きた反乱は、陳勝、呉広と呼ばれる農民の反乱だった</p>
<p>　　※陳勝は、「王侯将相いずくんぞ種あらんや」という言葉を残した</p>
<p>　　　→この言葉は、戦国時代以降の個人の実力を第一とする社会の様子が</p>
<p>　　　　よく表れていると言われている</p>
<p>　　　　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・各地の反乱する勢力の中で、劉邦と項羽が力をのばしてきた</p>
<p>　　→その後、４年間の激闘によって、劉邦が中国を統一して皇帝の位について、</p>
<p>　　　高祖と呼ばれるようになった</p>
<p>　　　＝そして、高祖は漢王朝を作った（前漢と呼ばれる）</p>
<p>　　　　※劉邦・・郷里の町の民衆を連れて蜂起した庶民出身の人</p>
<p>　　　　　項羽・・楚の名門の出だった人</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・秦の統一から滅ぶまでの流れをおさえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/776">秦の統一について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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